日の丸や君が代について書くと必ず、アンチの意見の方が現れるのですが、いまだ納得できる書き込みに遭遇したことがありません。当ブログに限らず他でも、です。某所のブログで、典型的アンチの記述を見かけましたので、この機会に再度、反論しておきます。(青字が原文です)
日の丸については、日本が(指導者の意図や思いがどうだったにせよ)引き起こした戦争で命を奪われた、アジア全域で2000万を超える人々の血に染まっている、というイメージを私は拭うことができない。
喜ばしい場面では目にしたくないものだ。
日の丸の旗を国旗とし「君が代」を国歌と定める国歌国旗法が制定されたのは比較的最近で、1999年のことだ。当時の国会では「強制はしない」との確認の上、衆議院では投票総数489、賛成403、反対86で可決、参議院では投票総数237、賛成166、反対71で可決された。
「強制はしないのだから」という答弁は私の記憶にも残っている。そう言わないと国家主義への道を用意するとの批判をかわせなかった。
日の丸に拒否感ないし嫌な感じを抱くかどうかは、日本とアジア諸国との関係・史実をどれほど認識しているかによっている。学校で近現代史を教えず、
メディアでは明治を輝かしい時代として、またあの戦争を「国を守るために必要な」戦争であったかのように描くことが多くなっている今、
とりたててナショナリスティックな意図もないが自国の行いについての見識もない「善意の」文化活動は、明白な意図がわかるものより有害だ。
今、教員と子どもたちへの日の丸・君が代の強制が教育現場で進行している。なぜ卒業式にそれが必要かの説明もなく。
私が教員だった頃は、職場の組合の会議でも論議され、「教育活動の内的論理からは出てこない」「本質的に必要ではないもので職場を分断されたくない」
「右翼に屈服して日の丸を掲揚する、という教師の姿こそ教育上有害」という理由で一致して掲揚に反対していた。今は職場の様相も様変わりしているという。
・・・・引用終わり・・・・
>日の丸については、日本が(指導者の意図や思いがどうだったにせよ)引き起こした戦争で命を奪われた、 アジア全域で2000万を超える人々の血に染まっている、というイメージを私は拭うことができない
必ずこれを言いますよね。(指導者の意図や思いがどうだったにせよ)と前置きするだけ、まだこの方は良心的なほうかもしれません。先の戦争は一方的に日本が悪かったという決めつけが横行している中、
まだしも冷静なほうでしょう。それゆえ人々の血に染まっている「イメージ」という言い方をなさったかと思います。しかし、イメージで言うなら日の丸に晴れがましい清々しい「イメージ」を持つ人々も
います。個々のイメージで日の丸の賛否を言うのは違いますでしょう。
>当時の国会では「強制はしない」との確認の上、衆議院では投票総数489、賛成403、反対86で可決、参議院では投票総数237、賛成166、反対71で可決された。
強制はされていません。教育現場では国旗掲揚を拒否する教師たちが現に存在し、君が代のピアノ伴奏をやらない音楽教師がいるではありませんか。あなたの文脈で「強制」という言葉を
用いるなら、国旗は掲揚すべきではないという言動も強制です。東京都の教科書採択は公開制ですが、壇上に突進して日の丸を引きずり降ろそうとするおばさんが登場するほどの
「自由」さです。某国なら逮捕、監獄行きです。
>学校で近現代史を教えず、
【客観的に】きちんと教えられないから自虐史観に偏るのです。教えられないことはむしろ、あなたのような立ち位置の方には好都合でしょうに。教科書に明記されていない空白部分をよいことに
授業で一方的な史観を刷り込んで来たではありませんか。あなたの言う「近現代史」というのは、自虐の現代史ですよね。
>日の丸に拒否感ないし嫌な感じを抱くかどうかは、日本とアジア諸国との関係・史実をどれほど認識しているかによっている。
その通りです。「認識しているからこそ、日の丸を肯定する」という視点も一方にあります。アジア諸国とはどこを指すのでしょう? あの戦争を否定している「アジア諸国」は韓国・朝鮮と中国だけですが?
他はむしろ共感、賛美、感謝を表明していて、そのことは教えられない現在の状況が偏っています。
>またあの戦争を「国を守るために必要な」戦争であったかのように描くことが多くなっている今、
多くなってはいません。拙ブログでは、まさしくその必要な戦争・・・というよりは避けられない、仕掛けられ包囲されて受けて立たざるを得なかった戦争であると
認識していますが、その論を押しつける気はありません。しかしながら、描くことが多くなっている、というのは事実と相違しています。日教組がパワレスになって行く流れに
逆らうかのごとく、国民全体が対象という意味では日教組よりも影響力の巨大なNHKが「日教組史観」ともいうべき自虐史観をあの手この手で日々、国民に
発信し続けていることはご存知でしょうか。
>とりたててナショナリスティックな意図もないが自国の行いについての見識もない「善意の」文化活動は、明白な意図がわかるものより有害だ。
これは、そのまま逆の意味に反転可能です。すなわち「とりたてて極左的自虐史観の意図もないが自国の行いについての見識もない『善意の』文化活動は、
明白な意図がわかるものより有害だ」
多いですよ、日教組の教育、マスコミの日々の刷り込みを無自覚にその価値観に据えて、自国の行いについてなんの見識もなく日本は過去に悪いことをした、
だから中韓に少々言われてもやられても仕方がないという論調の人々。多いというより、漠然とした罪の意識を持たされた日本人のほうが
圧倒的にまだ多数でしょう。日教組の教育のおかげで。
「ナショナリスティック」なことがいけないという論拠は何でしょう? 国家主義不可という意味でしょうが、この原題の国際情勢の中で国家主義を放棄するっことは丸腰で武装の相手と対することと同義です。しかし、それこそが
あなた方の望む所なのですよね。九条墨守、軍備反対。OKです、もしそれが成立する国際社会であるならば。現状では無謀な空論に過ぎません。軍備反対、戦争反対を叫ぶなら、いまだ正規の軍隊すら持ち得ず、年々軍事費削減の日本にではなく、年年に軍備費を増大させ、軍事力を増している中国や韓国にこそ厳しく言うべきでしょうに。彼らの陸海軍の拡大は自衛のためですか? 新兵器の次々の導入は何のため? 中国の度重なる核実験はお遊びではないでしょうに。彼らは何を目標に軍隊の充実に努めているのでしょう? 両国にはナショナリズムはないとでも主張なさるのでしょうか?
>今、教員と子どもたちへの日の丸・君が代の強制が教育現場で進行している。なぜ卒業式にそれが必要かの説明もなく。
なぜ説明が必要なのでしょう? ここは日本国です。世界のいかなる国に、国旗と国歌を伴わない儀式があるでしょうか?
強制ではなく国民としての義務です。強制ではないからこそ、地方条例で強制化の動きがあるのです。あなたのように義務を義務として心得ぬ教師がいるからです。
>私が教員だった頃は、職場の組合の会議でも論議され、「教育活動の内的論理からは出てこない」「本質的に必要ではないもので職場を分断されたくない」
右翼に屈服して日の丸を掲揚する、という教師の姿こそ教育上有害」という理由で一致して掲揚に反対していた。今は職場の様相も様変わりしているという。
公務員のお立場だったのですよね? 「教育上の内的理由」「本質的に必要ではない」という判断はあくまでも一方の側からの価値判断です。国旗、国歌の姿勢は子どもたちが将来、自分の考えを持てるようになってから決めることではないでしょうか。
日の丸の掲揚が「右翼に屈服」ということになぜなるのか、分かりませんが・・・国旗と国歌の必要性を説くのが右翼であるという認識でしょうか?
だとしたら、世界の国、国民のほぼ全てが右翼ですね。国旗国歌を否定する者がいる、またその言動が許される日本が特殊なのです。
最後にあなたに問います。国連加盟国は戦争体験国ですが、それらの国々の国旗は「血に染まっている」から掲揚すべきではない、ということになりますね?
それを、たとえば中国やアメリカであなたは堂々と主張できますか? またその主張を彼らが是とすると思いますか? あなたは無事でいられますか?
韓国でさえ ベトナムでライタイハンに代表されるような残虐行為をしでかしていて、また日本人にも暴虐の限りを尽くした史実があるのですが、太極旗の掲揚はいいのでしょうか?
日本人が大量に韓国に強制連行されて迫害を受けた事実に対しては黙認でしょうか?
また66年前のことを持ちだして血染めの日の丸などという方が、なぜ現在進行形である中国のチベット、ウィグルへの暴虐には口をつぐんでいるのでしょう?
ことさら日本の国旗掲揚のみがいけないと言い張る、その論拠をお示しください。
あなた方の主張に基づく理想の世界とは何でしょう? 日本は悪いことをしたから何でも中国と韓国の言うなりにハイハイと謝罪をし、、要求通りにお金と特権を与え続ける世界でしょうか?
「韓国は日本にとって『文化大恩』の『兄の国』である。『師匠の国』なのである。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった、故に私は永遠に罪滅ぼしをしていく決心である」(池田大作氏)
池田大作氏と同じ立ち位置にあるのでしょうか? そのような日本を担って行くのは、公務員の恩給で楽に暮らしているあなた方ではなく、あなた方が教えた子どもたちなのですが。
【追記】 元教師の方の記事はあるドラマを見て、日の丸が登場したのに抗議してのことのようです。