コメント欄に「和を以って貴しとなす」の真意を誤解しての投稿を頂き、しかしながらこの言葉が「とにかく物事に角を立てず、穏やかに」と誤読され、日本人の特質として流布されていて、誤読はこの方に限らず、なので、この機会に聖徳太子の言葉の真意を述べておきます。
道理に叶った結論を得るには徹底的に議論せよ、というのが聖徳太子の言葉の真意です。
現在の日本人のように、中韓が仕掛けて来る理不尽に対して、無関心無抵抗であることが「和をもって」ではないので、どうぞ誤解なさらぬように。
また「和」と一般に流布されていますが、原典では「和らぎ(やわらぎ)」です。
詳細は興味があれば動画を見て頂きますが、何が何でも仲良く穏やかに、長いものにはまかれろ、などということを聖徳太子は言っていません。
不当な言いがかりや搾取を黙って見過ごせという腑抜け精神を説いたものではありません。
また「尊しとなす」と理解されていますが、それが間違いというわけでもないのですが原典では「貴し」です。日本語は繊細微妙です。尊と貴の細やかなニュアンスを分かりたい。
尊いも貴いも、優れて冒さざるさま、という意味ですが、貴いには神気を帯びて気高く近寄りがたいのニュアンスがこもるかと思われます(べべこ解釈です)
「神(かむ)さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を」 万葉集
「神さびた」がポイントですね。
「和らぎを以って貴しとなす」
この言葉の真意を心得ておいたほうがよさそうです。
日本人の精神性を表すのに余りにも誤用されています。
何が何でも仲良く、そのためにはなぁなぁでもいいからコトを丸く収めよ、という腑抜け精神からは程遠い、凛とした言葉です。
聖徳太子「和を以て貴しとなす」の真意