活字びっしりで読みづらいでしょうが、かつて大好評だった記事に手を加えての再掲です。
これは日本の守らねばならない美意識の観点から述べた、簡略ながら新たな防衛論になり得るのかも?
表題の 四十八茶百鼠という言葉。(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)
茶色は単純に茶一色ではなく、48通りものグラデーションがあり
それぞれに、名前がついているのです。
グレーに至っては100種類もの彩度、明度に区分けされ100通りの
名称を持つ。(実は、茶、鼠共に100色を超えますが、48も100も
数が多いという当時の語呂合わせ的言葉遊び)
【茶色】
木枯茶、桑茶、沈香茶、千歳茶、百塩茶、丁子茶、枇杷茶、黄唐茶、山吹茶、鴬茶、鶸茶、雀茶、鳶茶路考茶、瑠寛茶、梅幸茶、団十郎茶、
芝翫茶、岩井茶、路春茶、遠州茶、利休茶、利休白茶、宗伝唐茶、宗伝茶、観世茶、白茶、黄茶、赤茶、青茶、緑茶、黒茶、金茶、唐茶、
昔唐茶、樺茶、江戸茶、土器茶、枯茶、媚茶、焦茶、葡萄茶、栗皮茶、煤竹茶、御召茶、黄海松茶・・・
【鼠色】
桜鼠、素鼠、銀鼠、丼鼠、利休鼠、深川鼠、藤鼠、鳩羽鼠、青柳鼠、梅鼠、想思鼠、納戸鼠、紅消鼠、松葉鼠、柳鼠、葡萄鼠、白鼠、
茶鼠、藍鼠、錆鼠、濃鼠、小町鼠、薄雲鼠、鴨川鼠、淀鼠、水色鼠、湊鼠、空色鼠、浪花鼠、中鼠、都鼠、御召鼠、小豆鼠、臙脂鼠、
紅鼠、牡丹鼠、茶気鼠、嵯峨鼠、壁鼠、生壁鼠、山吹鼠、玉子鼠、島松鼠、呉竹鼠、貴族鼠、源氏鼠、繁鼠、黒鼠・・・
わが日本国民の色彩感覚の鋭い繊細さに息を呑む思い。
うっすらとピンクがかったグレーも、紅鼠、牡丹鼠、梅鼠と分ける緻密さ。
いったいに貧しいが豊かな国民であった、というのが明治期までの
海外からの渡来有識者の日本評価であるけれど、これだけの色彩名があるということは、それに相応する反物、着物があったということではないかしら。
貧しいどころかなんという豪奢!
歌舞伎の衣装の、たとえば空色と茶色との意想外の組み合わせ、このセンス。
その空色も茶色も、何段階、何十段階に分類されるこの細緻な美意識。
大胆なカラーの組み合わせも意匠も、ジャンニ・ベルサーチに引けを取らず、
EVERLANEやMadewellなどのセンスにも負けていません。
言えば、現代の人気デザイナーたちが到達した表現力を、私達の
先祖は江戸時代に軽々と達成していたのでした。
色彩感覚に優れているのは、イタリア人ですが日本人も本来は素晴らしいのです。
敗戦が、日本の美意識をも圧殺してしまいました。
「グレー」一色に100以上もの呼称を所有する国家はおそらく絶無。
日本語の曖昧模糊をあたかも、欠点のごとく言うは誤りで
玉虫色にたゆたう空間を持つのが、成熟した言語なのではないかな、と。
「慮る(おもんばかる)」というごとき、大人の感性を持たぬ国は
持ち得ない言語であり、色彩感覚でしょう。
とはいえ、ひと色で「遊ぶ」感覚は実は、町人の華美贅沢を取り締まるために
幕府が発令した「奢侈禁止令」が発端。
江戸の人々はやむなく茶色や鼠色、御納戸色(紺)系統の地味な着物を
着るようになった、のだが、さてそこから先が日本民族の柔軟さ、素晴らしさ、
「色を遊ぶ」という文化をまたたく間に組み上げたのでした。
茶と鼠、紺しか幕府が着せぬというなら、ひと色のなかで遊びましょうと、
「団十郎茶」や「璃寛茶」「利休鼠」といった当時人気の歌舞伎役者や
風月山水などの名前をつけ、絶妙なる中間色を次々と創り出していきました。
そこから「粋」という抑制の美意識も育まれたのではないでしょうか。
けばけばしい原色に塗りたて、お寺といえばキンキラキンに飾る感性は
足元にも及ばぬアートの粋、洗練の極みに達したのが日本人なのでした。
皇居の佇まいも蛮族の目には「地味」としか映りません。(金ピカお衣装を好んだ方もいらっしゃいますが)
抑制した羽織りの、裏地に着るもの脱がせるものだけの秘密として
華やいだ色を使う感覚も、未開文化の人たちには理解できないでしょう。
秘めたエロスの華やぎも。
納戸の暗がりを「藍」と捉える感性が御納戸色という色彩名を産みました。
神社の白木の美学、枯山水の侘びさびへと洗練の極みを尽くすいっぽう
歌舞伎に見る放埒なまでの絢爛豪華をあわせ持つ柔軟、融通無碍なる日本の感性。
歌舞伎に親しんだ方ならご存知の通り、派手だが伝統に洗いぬかれて
下卑てはいず・・・・野放図な遊び心を保ちつつ、計算され尽くした色彩感覚ゆえに一歩間違えば、けばけばしさのきわどい淵で思いとどまる。
見事の一語。
絵画のジャンルでも水墨画から金泥、極彩色の襖絵まで。
浮世絵はピカソと印象派の画家達モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、
ゴーギャン、ロートレックらに霊感を与え、
芸術の都巴里を中心に19世紀後半の欧州はジャポニスムの色に染め上げられ、影響は美術史に確たる地位を今なお占めています。
ルイ・ヴィトンのダミエ・キャンバスやモノグラム・キャンバスも
市松模様や家紋の影響説がありますね。
歌川豊国の浮世絵をモチーフにしたとされるゴッホの自画像。
日本のマンガやアニメは、現代のジャポニスムと呼ばれています。
底浅い歴史の韓国のアニメとは、一線を画します。
苔の緑に美を見いだした視線を上に転ずれば富士山が神さびて
端正に佇む。
優美な自然に培われた感性が言語を産み、言語は感性を研磨します。
みども、拙者、あちき、わらわ、おれ、ぼく、あたい、それがし
わたくし 小生 おいら おれっち、あたくし ・・・思いつくまま一人称を
並べてもこの奔流ぶり。
かくも多彩な言語を持つ国家が他にあるでしょうか。
言葉は、即文化度であり、心の丈の深さでしょう。
深みのある心は万物に神の存在を感知し、八百万の神と
称します。
豊葦原瑞穂国は言霊のさきわう国。
その両の手に有り余るほどの語彙を、省いて省き尽くして
省くことの贅を提示してみせたのが俳句でしょう。
余白の美を知る民の秀逸さ。
ストイックに言葉を省き抜き、字数の制限、季語のハンディまで課して
枠におさめることで天地が融通無碍に広がる逆説的真理も古来、体得していた。
静止の中に無限の動きが潜む能もまた。
世界のあらゆるパペット技術が集合しても文楽の洗練には及びません。
七五調が生理に叶うごとく、日本語はまた「ひびき」と「調べ」とに
敏感な言語でもあります。単なる符号の粋を超え、アートにまで
止揚された言語が他にあるでしょうか。
言葉が崩れれば礼節も潰え去ります。敬語の衰退に伴い、
感謝、謙譲、敬い、分を心得るなどの日本人の美点も消え果てます。
日本語を大切に守りぬくことは、護国につながります。
「ゆとり教育」がこの世界に冠たる日本語をいかに毀損してきたか。
ゆとり教育の主導者だった寺脇研氏が、最近テレビにしじゅうコメンテーターとして出て、安倍政治批判。図々しいです。現在韓国系大学の理事におさまっている現実を見れば、彼らを含めた日本語破壊者たちの狙いがどこにあるか知れるのではないでしょうか。
漢字の制限、言葉の制御、余計な決めを作らないで欲しい。
それは日本文化と精神の破壊です。
複雑な漢字や語句を覚える暇に他のことを学ぼう、という主張があるけれど、古来、日本人の頭脳明晰は漢字、万葉仮名、平仮名、片仮名、外国由来の言葉との組み合わせ、果ては漢文の訓読に至るまで・・・楷書、隷書体、草書体、複雑多岐にわたる文字を息をするように使いこなしてきたことによること、多大なのではないでしょうか?
隷書体。草書体の基となった。
日本人の頭脳はもともと、読み書きの習得に時間を取られるがゆえに
他の学習時間が失われるほど、やわではない。
識字率が異常なほどに高い、高かった我が国の文化のレベルが
それを証明している。
はやぶさも、多彩緻密な日本語を操る脳から産まれ出ました。
科学も言葉とは無縁ではない。豊潤な言語が、光彩陸離の
発想を弾き出します。
ビジネスとて、同じく。人は思考するとき「言葉」を用いる、脳内で。
思考のツールとしての言葉は豊かであることに越したことはない。
言葉が痩せるところから文化、精神、技術、商売も貧しくなります。
日本語は世界に冠たる豊穣の言語です。胸を張りましょう。
日本人すらまだまだ知らない日本語が、蔵の中にははちきれんばかりに
待機してます。掘り起こそう、思い出そう、使おう。
それらは、護国の武器でもあります。
スポーツに目を転ずれば、相撲、柔道、弓道、剣道・・・と
単なるあられもない格闘技の下品は見当たりません。勝ちさえすれば
ルールを破ってもよい勝ったものがちという下卑た心の片鱗も見当たりません。
朝青龍が狼藉働いて去り、賭博で地に堕ちたとはいえ
本来、相撲は神事。運動すら、求道に昇華するこの国。
これらの財産を遺してくださった先人たちに、満腔の敬意と
感謝とを捧げつつ。四季折々の巡りに水麗しく、木々は穏やかな陰を落とし、
季節ごとの花が揺れる国を愛しつつ。
また、この国を、文化を、護るべく海に散華された若き命、特攻の
方たちの思いを、いまだご遺骨すら祖国へ戻れず異国の地に
横たわる防人たちの思いを裏切ってはならない、蛮族に侵略されてはなりません。
時の政府は支持しますが、侵略者たちのために、内側から戸を開ける愚昧と悪辣さ、そこは許さない。先祖が命賭け魂込めて守りぬいたこの国。
和の色、いろいろ、グラデーション、目を見張ります
ブルーだけでも何十色、ブルーがしだいに濃味を増し紫に
変容していくまでのあわいにも、ひと色ずつ名前がつけられ
その紫じたいが幾層にも分かれているという目まいがしそうな繊細豪奢。
世界のどの文化圏にも属さない、この世に一輪だけの花、日本。