皇后陛下の生い立ちの背景に関して、読者の方たちから寄せられた文章を
掲載しました。傍証を複数併記しつつの推論です。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/7c9cffa819831b24bbfbd63d9f8eb57b
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/6d662ed559e0da9a992d3a0ab4c6e51e
無論コメントを寄せてくださった方々も、皇后陛下の何かを「暴く」ということが動機ではなく、
現在の、余りにも日本の国体を無視なさったような左翼言動がいぶかしく、
それゆえの考察でした。
その出自部分に対して、これも読者の方から反論を頂戴しましたので、ご本人の許可を得て
コメ欄からこちらへ転載させて頂きます。皇后陛下のカトリックとの緊密性や、それと連動してのGHQ関与説への反論ではありません。
こちらに、再反論がもしあれば、コメ主さんの同意を得た上で、また転載させて頂きます。
出自は本来、不問に付すべきことだと、基本的に思います。ただ、その言動が
美しからざる時、穢れや歪みを感じる時、避けようもなく、言われるのだと思います。
基本の問題点はそこでしょう。
出自某所推論と、その否定論と双方、これで掲載することになります。
判断は皆様で、どうぞ。ちなみに宮内庁が某所出自説に抗議した形跡がないのは、
抗議するとその地区への貶めになりかねず黙殺・・・・という理由からかもしれません。
騒ぎを大きくしたくなかったからかも。しかし、それも類推です。世間を騒がせたヤフオク問題ですら黙殺のところなので、あちら様の真意は、はかりかねます。「事実ではありません」程度のコメントは、いずれの問題に対しても、出すべきだとは思いますけどね。
これ、半永久的についてまわりそうですから。出自説の根拠は、某ルポライター氏が発表した一文よるものだと、ソースは明確なのだし。
これ以降の、長文ではない、コメ欄のやりとりについては転載しないので、コメ欄をチェックなさってください。
以下、コメ欄よりの転載です。
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この数日、正田家のルーツについて色々調べてみたのですが、やはり正田家は、名家だと思います。
その理由として江戸時代『米文』と 言う屋号で米問屋を営んでいたこと。
この規模は日本有数で、先物取引の発祥は大阪の堂島の米相場からと言われていますが、当時『米文』の商いはこの米相場に影響を与えるほどだったということから、当時の日本の経済を動かす規模だったと思います。
当時えた非人をまとめ管理していたのは、えた頭である弾左衛門であり、部落の仕事は皮革製品やにかわ、竹製品や葬祭に関わる処理、一部芸能関係とはっきり限定されており、副業で一部えた非人も農業ができたみたいですが、一般に流通される米とは隔絶されていました。
えた非人の仕事は専売特許のように許された仕事だったので、その利益も大きくそれを取り締まる弾左衛門は一万石以上の大名規模とも言われていますがそれでも身分的には分けられており、えた非人の産業内で固定されていたので、この時代、正田家が扱っていたような大規模な米の商いには、携われない。
又、1844年正田家は名字帯刀を許された領主身分であった。そして美智子皇后の祖父であり日清製粉の創設者正田貞一郎氏の父作次郎は明治初頭、横浜で外国の米を輸入する貿易商であったことから、正田家の西洋嗜好はこの頃からの影響もあるのではと考えられます。
又正田貞一郎氏は現在の一橋大学を出て、戦前貴族院の議員であり又母の幸も武家でかなりの名家であったこと。
この時代、今より身分制度がはっきりしており、武家の名家の娘がえた非人の家系に輿入れすることは考えられない。
また貞一郎は後に洗礼を受けるが館林ではなく東京の文京区の関口教会であり、父の代からの西洋との繋がりを考えるとあまり不自然さを感じない。
又米相場が投機的と考え醤油醸造を初める経緯も『米文』の相場での影響を考えると頷けます。
現在の館林の正田醤油が目車という部落地区にあるか隣接しているのは、多分その頃醤油製造の過程での作業の多くが部落産業のものだったからではと推測します。今でいう3Kの仕事であった醤油醸造は、職人を集める為そのような場所に工場を建て、敷地には、今で言う企業の福利厚生のような考え方で部落民の為の白山神社を敷地内に奉ったのではと推測することもできるのではと思います。
実際、神戸の有名な灘にある酒造造メーカーは経営者は違いますが、酒職人である杜氏か、あるいはその下働きは殆どが部落民と聞いたことがあります。
そして初代宮内庁長官の下で小泉も、正田家のルーツは300年遡ったと言われていますので、間違いはないかと思います。
民間人として初めての入内ということで、もしおかしな出自であれば国民からの反発も出ることから、開かれた皇室を達成したいGHQ側としてもこの辺は慎重に審査したのではないでしょうか。
実際、雅子卑の正体を後藤田官房長官から聞かされた昭和天皇は、雅子卑の入内を『ムシロ旗が立つ。国民の誰からも祝福される結婚でなければならない』旨の事を仰り、猛反対されています。
又GHQとして当時の美智子様が都合が良かった点は、西洋的なものに精通しており、カソリック的風土の家系ブラス正田家の戦前から日本経済に影響を及ぼすほどの経済手腕、特に日本人の主食を米から小麦に代えさせ、戦後日本を植民地としアメリカからの農産物をどんどん買わせたいアメリカにとって、次代の天皇家のトップが製粉会社と言うのはイメージ的にも好都合だったのではないでしょうか。
正田家を通して日本人にどんどん米よりパンを食べさせる=新しい時代の開かれた皇室=日本人の新しい食文化の広告塔の意味もあったのではないでしょうか。
実際、戦後の日本の飢えをアメリカが救ったと印象づける為のGHQのギブミーチョコレート作戦の中に学校給食がありました。
パンと脱脂粉乳の配給です。
アメリカは、子供の頃からパン食に馴染むと大人になってからもその味覚を覚えパン食を続け将来的に日本はアメリカからどんどん小麦を買い付ける国になると計算したそうです。
その為の次代の天皇家のトップが日清製粉の令嬢で西洋的な文化を家柄に持ち思想的にもクリスチャンの美智子様は、開かれた皇室=西洋化の皇室=日本人の西洋化した暮らしのイメージにぴったりの国民に対する広告塔としての価値もあったのではないでしょうか。
勿論従来の代々受け継がれた皇室の伝統や仕来たりを破壊する尖兵としてもGHQは期待したと思います。
事実皇室に新しい風とばかりに、入内時東宮に台所を造らせ自らお子様のお弁当を作る美智子様の姿に憧れる主婦は多かったと思います。
◆
生家が部落地区にあるが、部落民ではない例。
京都では、今でも地元の、特に年配の方が眉をひそめる古くからの部落地帯、田中・養正地区。
この部落地帯のど真ん中に、西園寺公望の生家があります。
西園寺公爵の生家は5摂家に次ぐ格式の高い公家で、天皇家とも親戚になる家柄。
後に住友家の養子になりフランスのソルボンヌ大学へ留学、伊藤博文の腹心として貴族院議員、後に内閣総理大臣となり昭和天皇を支えられた方だとか。
この生家は京都での別宅として使用され現在は京都大学に譲渡され、迎賓館として使用されています。
この田中・養正地区には田中水平社もありますが、重要文化財の格式あるお寺、通称百万遍寺や京都大学もあります。
そして、部落解放後の1904年頃敢えてこの部落地区に鐘淵紡績工場が建設され又京都市の都市計画で京友禅の染工場も多く移転してきています。そしてこれらの工場では多くの部落民が働いていたそうです。
これってこのまま館林市の正田家と部落地区に醤油醸造工場を建て部落民が働いた正田醤油に当てはまりますよね。
正田醤油や日清製粉の創設者正田貞一郎は貴族院議員でしたし。
部落地区といっても昔は田畑の中に小さく点在しその合間には部落ではない普通の民家や格式のある家もあるのだと思います。(**の祖母方の元庄屋の本家もそのような立地)
だから町名や地区だけですぐ出自を部落民認定するのも危険だと思います。
◆
**にとっての皇室は、昭和天皇と香淳皇后です。
現在の皇室は、あの頃と同じ日本の皇室とは思えません。
今上陛下や美智子皇后の左翼的言動や東宮の惨状もそうですが、何か目には見えない太古から受け継がれた皇室の本質のようなものが、失われ変質してしまったような気がしてなりません。
やはり、その原因はBB姫様が幾度も検証して頂いているような敗戦に伴うGHQによる皇室解体プログラムとも言えるものだと思います。
その為のウィルスとして仕込まれたのが今上陛下へのアメリカ人家庭教師やカソリック信徒の宮内庁長官や侍従そして開かれた皇室の美智子妃殿下だったと思います。
江戸時代は日本有数の米問屋であり昭和初期には今でいう農林水産省でさえ小麦のことなら日清製粉に聞けと言われたほどのトップ企業の会社の日清製粉のお嬢様ですが、公家や財閥系ではない出の美智子妃殿下は、天皇家に輿入れするほどの釣り合いではなかったと思います。やはりGHQの策略的なものを感じます。
ですが、正田家自体は、そのようなイメージとは違いかなり愛国的な企業の歴史があります。
安政の大地震の時は、倉庫にあった米を全て船に積み江戸に向け、被災民を救いに行ったそうです。
又貞一郎も命の糧である食料を投機の対象にしてはならないとの信念から値を上げないよう企業努力をされていたようです。
またコメント欄にも被差別民を雇うことが何か公序良俗に反するようなイメージを持たれている方がいますが違います。
被差別部落を廃止し身分制度を無くすよう明治政府に要求したのは当時の欧米列強です。同時にキリスト教の布教も要求しました。
そこで当時の国粋主義者や富裕層は、部落民を貧困から救い経済的に向上させるように運動したそうです。これが『融和運動』と呼ばれています。
被差別部落民を雇うことは、企業にとっても被差別民が従事してきた一般には敬遠される重労働の仕事の需要があったにせよ、仕事を与え貧困から救済する意味もありました。
記事中の公家の出で総理大臣も務めた西園寺公爵も『被差別部落の女性と結婚したい。そうすれば被差別部落民の社会的地位も向上するだろ』と仰っていたようです。