コメント欄に頂いたコメントを、ご本人にご了解を得ての転載です。
かいつまんでも読めるよう、色文字にしました。
BBのコメントは抜きで、そのままの転載です。
以下、転載。
皇后、その出自・カトリック・左翼思想・GHQ?
**さんの情報を基に私も調べてみました。
長くなりますが、大事な資料かと思われるので。
雅子さんがまだ少女期の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」
と言っていた福田赳夫氏。そんな早い時期から不思議だが、
小和田夫妻は、福田夫妻の「配下」のような関係。
雅子妃の入内自体が仕組まれたもの、ということだろう。
そして、小和田家の家系についてはとかく囁かれているが、
雅子さんの母方、江頭家も、福田家に類することが言われているのは
ご承知のとおり(むろん、この部分の真偽は不明。状況証拠に
近いものがグレーゾーンとしてあるだけ)福田家は客観的事実。
◆福田赳夫氏出生地
群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)
*インターネット版部落地名総鑑 - 同和地区で検索のこと
◆同和つながりで見るなら、宮沢喜一。こちらも同和出身で、天安門事件直後の、
天皇皇后を絶対やってはいけない時期に、中国に赴かせて中国の国際信用を取り戻すことに加担。
福田ー宮澤ー皇后(本家のあった東武線「館林」駅の裏手は、エリアだから、事実なのか?)ー皇太子妃(情況証拠による仮説)
◆次に第二の水俣と言われた【昭和電工】つながりで見てみます。
↓
福田赳夫 昭電事件、昭電汚職昭電疑で大蔵省退官(逮捕されたが無罪。しかし何らかのひっかかりは、あったからこその逮捕ではなかろうか?)
三木睦子(三木武夫の妻)
昭和電工の創業者・森矗昶の二女
(姉は元昭和電工社長の安西正夫に嫁いでいる)
三木睦子の左翼ぶり
著書 『戦争で得たものは憲法だけだ 憲法行脚の思想』
『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』
9条の会結成時呼びかけメンバー。従軍慰安婦救済の「女性のためのアジア平和国民基金」。
金大中大統領がノーベル平和賞を受賞した際「金正日総書記も一緒に受賞して欲しかった」と発言。北朝鮮から勲章を受ける。
「多くのアジア・太平洋地域の 人々に、耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした我国の行為を厳しく反省する」とシンガポールで売国発言した海部俊樹を育てた一人。
自らが国民の付託を受けたわけではないのに、公の場に出しゃばって(おそらく本人は善意の)売国言動は、安倍昭恵と同じ。総理としてそう悪くもない夫の足をそのアタマの悪い言動で足を引っ張ったのも似通う。
◆非差別部落つながりで言えば宮澤喜一。異常なまでの中韓へのおもねり。
天安門事件の後に、絶対やってはならなかった中国への天皇皇后訪問は
宮澤内閣の時。但し、部落説は部落解放運動家小森龍邦によるもので
本人は否定。念のため。
◆皇后陛下の妹、正田(安西)恵美子さんの夫は、安西孝之氏(昭和エンジニアリングの社長)、安西家は、 第二水俣病加害企業である。
皇后陛下の祖母きぬさんはカトリック教徒。(その後の一家の葬儀の場を
見ると聖イグナチオ教会にある程度まとまっているので、一家のうち複数が
信徒であった可能性)
恵美子さんもカトリック教徒。
以上のキーワードを基に、以下の資料。
h
ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm
(抜粋)
この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。
そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。
美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね
これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。
この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。
神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。
「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。
フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。
一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。
弁慶(フ神父のこと)が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。
『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。
最後の握手皆様によろしくとみ声細く
仰せありしも悲しき思ひ出
正田きぬ
・・・・・・・・・・・・
◆カトリック、左翼思想、第二水俣、と糸が絡み合ってますね。朝日新聞まで。
資料として紹介した中には、皇室と神父の交わりが書かれていますが、時代的にマッカーサーが、カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト教を日本と皇室洗脳化施策として用いていた時なので、当然GHQからのゴリ押しもあっただろうし、記述からその分を割り引いたほうがいいかもしれません。
とにかく度を逸して、キリスト教の関与が多いのですよ。ということは、
GHQ関与の可能性をやはり考えてしまいます。
当時、マッカーサーが最先端の思想統制に用いようと試みていたのが、
プロテスタント、カトリック問わずキリスト教であったのは、史実に明らか
ですから。
その史実の延長線上に、皇室内外における異様なほどの
キリスト教ひしめきが事実としてあります。偶然を遥かに超える確率で、
まして神道の場に、となれば明らかに意図した存在があるわけです。
GHQ以外にあるとすれば、CIAの可能性ですね・・・・。
それに、竹山パーティの竹山謙三郎氏(大蔵省)がGHQに公職追放を受けていないことも、GHQ側の人間であったと推察されます。
◆GHQが皇室内にキリスト教を持ち込み、昭和天皇が改宗しようかとまで
思いつめたのは、史実として残っていますが(「天皇の国師」その他)
その天皇に、フロジャック神父は会っています。皇居に出入りを許されていたのです。昭和天皇の個人的希望ではあり得ないでしょう。前後の経緯から
拝して。改宗を思われたのは、「国民を飢えから救うため」と「天皇の国師」他には
記されていますから、マッカーサーからの交換条件が、改宗であったのでしょう。
よく、留まってくださったと思います。もしマッカーサーの恫喝に屈して改宗なさっていたら、皇室は終わりでした。
◆軽井沢の出会いが偶然を装った仕掛けであったことは、宇佐美長官の国会答弁も記録にあり、もう検証され尽くしていますが、上記の資料でも正田家が深く関わったカトリック神父に帰依した田中耕太郎最高裁長官が、現場にいて写真まで写していた、ということは、正田家も承知の仕掛けであったとしても間違いないでしょう。例の「竹山パーティ」の存在があったことは無論で、この竹山パーティに美智子さんが15歳から出入りしていたことも事実です。高学歴エリートの男性と女性の出会いの場である竹山パーティに。
◆「田中耕太郎」といえば、当時の駐日大使、マッカーサー二世と「砂川事件」裁判について談合、その上で判決を出しています。一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密解除となって以降、日本及び米国公文書から明らかになっています。残党GHQ勢力の手先でしょう。判決はアメリカからの論功行賞狙いであったとも、言われています。
田中耕太郎には、明らかにGHQが関与しています。
むろんGHQ本体は去っているわけですが、その「本質」は日本に埋め込まれて存続していたわけですから。NHKにしろ、海外特派員協会にしろ、日教組にしろ、GHQ代理機関の残滓です。田中は、国際司法裁判所判事を務めたことがありますが、小和田恒もまたそうですが売国つながりの人事か、とふと思ってしまいます。
カトリック背景皇后の入内に昭和天皇の関与があった、ということにショックを受ける人もいるかと思いますが、その当時のGHQがいかに昭和天皇と、皇太子時代の今上陛下とを残酷なまでの脅しで使役していたか、それを考慮すべきでしょう。
昭和天皇の誕生日にA級戦犯への死刑判決、今上天皇皇太子時代の誕生日になったとたんの午前0時から、A級戦犯を次々に吊るして行った彼らの凄まじいばかりの、皇室への脅しが急に消えるわけもありません。
福田元総理が絡んだ雅子妃の場合と同じく皇后も、結構長いスパンでの入内への道がある程度敷かれていたかも?
◆カトリックに関しては正田家で未受洗なのは、ひょっとして皇后陛下だけかも? 弟の修氏の嫁、正田(旧姓大原)もカトリックの家の娘で、そのこだわり方から推して。
それに皇后自身も・・・・本当に未受洗かどうか、自己申告ですしね・・・・。
有名なフロジャック神父と個人的に密着していた、皇后の父の母きぬが、
孫を放置していただろうか? とも思います。
少なくとも、祖母の代からのカトリック神父との個人的御縁なので、精神的には相当カトリックの縁は骨絡み深いと見るべきでしょう。入内に際しても、詳述は紙幅の関係で割愛しますが、カトリックの人たちが、非常に深く関わっていたことが残された資料から伺えます。
◆カトリック=GHQの差金と単純に分類しているわけではないことは、上記
最小限の考察からお解り頂けるかと思います。
皇后陛下の出自にせよ「GHQ関与論」にせよ「陰謀論」と決めつける人々がいます。思考停止するのは楽でしょうが、しかし出自に関しては、正田の本家の住所を調べ、それがどのエリアに当時属していたか調べればいいのです。結論はそれからでしょう。本家があったのは、東武線「館林」駅の裏手で、昔は「目車地区」と呼ばれていました。GHQ関与に関しては、敗戦後のプレスコードから、WGIPまで検証、その流れの中で、事実存在した複数ある事象を時系列で観察、考証すべきことです。偶然の確率を遥かに超えた事象については、明らかに「そう意図した何かの力があった」と見るべきでしょう。
◆「隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!」 (講談社+α新書)には、いかに天皇周辺のキリスト者が、尋常案ならずひしめいているか、が綿密な資料と調査とによって書かれています。
ただ、そのキリスト教が昭和天皇が自発的に求められたものなのか、GHQによる圧力で生されたのかは、意見が別れるところでしょう。私は、聖書の講義を常陸宮殿下になさった美智子さまを、烈火のごとく怒られたという天皇の側面のほうを信じる者です。
◆自らの乏しい知識と、狭い硬直した思考で「ないと思う」「あったとは、思えない」・・・だから、なかった、と短絡的な浅い意見というより「感想」ないしは「そうであってほしくない願望」論をしばしば見かけます。
◆GHQの皇室関与と、干渉については複数資料として有効な書籍がありますが、
『日本占領と宗教改革』(岡崎匡史著・学術出版)は、解りやすいでしょう。
GHQによる皇室キリスト教化施策は、天皇陛下とマッカーサの会談直後から
「バイブルクラス」として始まっているので、如実です。
◆なおWiki にあるヨゼフ・フロジャック神父は出身国も来日の時期も重なっているのですが、館林で布教、皇后陛下の祖母との深い接触に関する記述はないようです。
故意に記載されてないのか? あるいは私が何か勘違いしているのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF
私の勘違いでなければ、なぜ皇后陛下の祖母がらみの記述と神父の活躍した群馬館林時代の記述がないのか、狐につままれたようで不思議です。
「何かの勢力」の意図により、その部分だけごっそり「なかったこと」にされている?
被差別部落出身で大宅壮一賞を受けた上原善広氏が、正田の本家が被差別部落にあったことを指摘、しかし行政はその地区を同和とは認定しなかった、と記述しています。これもまた「なかったこと」にさせられたのでしょうか。
上原氏の記述の信憑性を云々する前に、正田家本家の住所を調べ、昔の非差別エリアでそこがあったのか、なかったのか自らの目で調べるべきでしょう。
Wikiへの未記載は、館林という神父活躍の地名と、正田家のルーツを重ね合わされることが厭だったのか、正田家のルーツがどっぷり、カトリックにあることを知られたくないのか?
以上のコメントに対して、次のコメントが寄せられました。
▼http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=272500
戦後日本をつくり上げた「意外な2つの勢力」「憲法九条」は「皇室を救い出す」トリック!「天皇の戦争責任回避」と「天皇制存続」実現のための「象徴天皇制」と「戦争放棄」
▼1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピッドが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶応義塾塾長をつとめた小泉信三、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田茂元首相である。小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論からいうなら、カトリック家系の美智子妃誕生は、昭和天皇の同意のもと、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」はけっして偶然ではなく、この時すでに正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常磐会」周辺の一部だけだった。
略
…………………………………………………………………………………………………
▼ネット上のこの方の他の文章も読むと、スタンスが偏向しているので、まるっと信用はしませんが…
2008年に初版が既に廃版のもよう。amazonに古本がプレミア付であります。
未読で言うのはなんですが…「吉田茂」は美智子さんを嫌っていたという話もあるので、100歩譲って、上から(まぁGHQでしょう)クリスチャン妃を何とかせいという圧力に、しょうがないと手を打ったのかも?
軽井沢テニスコートでの写真を撮った「田中耕太郎」についてwikipediaには、
「1957年8月19日の、皇太子明仁親王(現在の天皇)と正田美智子(現在の皇后)との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。」と、あります。
▼田中氏は「砂川事件」裁判で、米国とご相談の上、ご都合の良い判決を出していますね。(wiki及びニュース記事より)
最高裁判所所長時代に裁判長として「砂川事件」の政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下した(1959年12月16日)。
が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と接触し、一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、次々と機密解除となった日本及び米国公文書から明らかになった。
▼文化勲章受賞。大勲位菊花大綬章を没後叙勲。
大勲位って、戦後、皇族以外は、よくいうことききました~ってアメリカから貰う物なのね…?
▼〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第1章 皇太子ご成婚と二人のクリスチャン より一部抜粋、要約 P.14-P.40〕
ttp://ameblo.jp/antibizwog/entry-11586549367.html
(頭にh足してください)
さらに一部抜粋して掲載します。
▼小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論から言うなら、カトリック家系の美智子妃(正田美智子 1934-)誕生は、昭和天皇の同意の下、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」は決して偶然ではなく、この時既に正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田 茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」周辺の一部だけだった。
▼1953(昭和28)年
7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡
1954(昭和29)年
10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957(昭和32)年
5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892-1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958(昭和33)年
11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議
1959(昭和34)年
4月10日 皇太子結婚の儀
▼~皇太子のこの欧州訪問の随行員として、美智子妃誕生の立役者クリスチャントリオ、小泉・三谷・黒木が揃います。さらに、吉田茂は、昭和天皇・今上と2人の皇太子による2つの皇室外交に関わった唯一の人物だったと強調しています。by***~
(中略)
もう一度、先の年表を見ていただきたい。10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
▼この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。
(中略)
▼不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
▼旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
(中略)
▼~1953年といえば、美智子さんは18,9歳。なんで15歳から竹山パーティー?の謎も解ける可能性が。by***~
▼吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。
▼結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
………………………………………………………………
▼華族の素晴らしいお嬢さまが、当て馬として引っ張りまわされるのまで同じですねぇ。
この頃は、まだ国家の為と思っていたのでしょうねぇ。
この明仁皇太子の欧州訪問の随行には、ロックフェラーのエージェントといわれる、山本正の父君も参加。クリスチャン護送船団の一員。
・・・・・・・転載ここまで
正田家の人々 前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ、四男・順四郎、後列右から三男・英三郎、長男・明一郎、義弟・卓治、二男・建次郎
きぬが、最初にヨゼフ・フロジャック神父により洗礼を受け、生涯熱心で活動的なカトリック教徒に。
英三郎は、皇后の父親です。
美智子さまの祖母きぬに洗礼を授け、美智子さまの入内を「会心の傑作」と喜び、
美智子さまとも面識があった様子の、ヨゼフ・フロジャック神父。
マッカーサーの「日本キリスト教国化政策」を検証した本です。
「陰謀論」として軽んじられ一蹴されがちなトピックを、膨大な資料を渉猟しつつ、
証明している、とおおむね高評価を受けている本です。
「天皇の国師」にも同様記述あり。
マッカーサーが、神道価値観を壊し、日本国民と皇室の洗脳の道具として(プロテスタント、カトリックを問わず)キリスト教を使ったのは、『日本占領と宗教改革』などの文献の他に、プレスコード、War Guilt Infomation Program(略称 WGIP)などが傍証として、挙げられるでしょう。
《皇室とカトリック年表》追加
1945(昭和20)年8月6日 広島に原子爆弾投下
8月9日 長崎に原子爆弾投下
1946(昭和21)年5月22日 第1次吉田内閣発足
1947(昭和22)年1月31日 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見(えっけん)
1949(昭和24)年2月 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見
7月30日 駐日ローマ法王庁使節フルステンベルグ Maximilien de Furstenberg(1904-1988)大司教、昭和天皇に謁見
1951(昭和26)年4月16日 ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)、フリーメーソン帰国
1953(昭和28)年7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡
1954(昭和29)年10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957(昭和32)年5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892-1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡
↓
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958(昭和33)年11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議
1959(昭和34)年4月10日 皇太子結婚の儀
■皇室二代のバチカン外交
1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効から僅か一年、戦後初の皇族の外遊が行われることになる。選ばれた皇族は、当時の皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)だった。1953年3月30日の横浜港。出発を前に、米国船プレジデント・ウィルソン号上で、皇太子は国民へのメッセージを発する。
50万人の人波に送られて横浜を出港した皇太子は、ホノルルを経てサンフランシスコに到着、トロントからニューヨークに入り、ここでジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller Ⅲや、家庭教師を務めたヴァイニング夫人 Elizabeth Janet Gray Vining(1902-1999)と会っている。そして英国へ出航、以後フランス、スペイン、ドイツなどを歴訪、最後に米国に戻り、この時にフィラデルフィアのヴァイニング邸を訪れて3日間宿泊した。
約6カ月に亘(わた)る外遊で訪れた国は計14カ国。同年10月に帰国する。この14カ国の中にはバチカンも含まれていた。皇太子は7月6日に第260代ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見(えっけん)している。三谷隆信(1892-1985)によれば、この時皇太子はピオ12世の自室に招き入れられ、後に第262代ローマ教皇パウロ6世となるジョバンニ・モンティニ Paulus PP. VI(Giovanni Battista Montini 1897-1978、ローマ教皇在位:1963~1978)の部屋にも招かれている。
戦後皇室外交の幕開けを担ったのは、現在の天皇陛下が19歳の時だった。この時、首席随員として選ばれたのは三谷隆信、カトリック信徒のヨハネ・パウロ松井 明(1908-1994、原子力委員会委員1971~1976)首相秘書官、吉川重国(きっかわ しげくに 1903-1996)式部官、黒木従達(1917-1984)東宮侍従長、戸田康英(とだ やすひで 1911-1977)東宮侍従、佐藤 久(-)東宮侍医長などであった。この中で三谷と黒木は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862-1933)と内村鑑三(1861-1930)に直接、間接に繋(つな)がるクリスチャン人脈に当る。
田中耕太郎 天皇皇后の出会いを設定、偶然の出会いを演出した者の一人として、軽井沢に居合わせた。
カトリック教徒。マッカーサー二世を通じ、アメリカにひれ伏していたことが
後に知れる。
この撮影者が田中耕太郎。
皇后と親しい緒方貞子も写っているのではないか? と指摘する人たちもいます。
緒方貞子もカトリック教徒です。
緒方貞子は、女性天皇擁立の前提ともなりかねない女性宮家創設のため、
皇室典範変更をはかる、「有識者会議」のメンバーでこの時は、女性宮家
OKの結論でした。その後安倍政権に戻り、ない話になったわけですが、
両陛下の「憲法護持」の立ち位置と合わせて、お二人はアンチ自民・アンチ
安倍政権でしょう。(憲法護持を仰るその政治発言自体が、憲法違反ですが)
有識者会議に、女性宮家に賛成であるに決まっていて、しかも皇后陛下と
親しい緒方貞子を入れ込むなども、アンフェアなやり口でしょう。
どなたの采配かは存じませんが・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・
当記事は転載メインでBB発言は、参考画像に添えただけですが、最後に。
雅子妃のだらしなさと、いかがわしさから目を逸らしたいだけの目的での
皇后陛下批判、皇室解体論者の皇室批判と峻別をお願いします。
それらの人々の相乗りは迷惑です。
根底に日本大事の思いがあり、皇室の必要性を知った上での発言であるかどうか
見極めてくださいませ。