敗戦により天皇陛下が神から人となり、そして憲法上は「象徴」となった
そのことを、否定はしません。
「などて皇(すめらぎ)は人となりたまいし」という三島由紀夫の
「英霊の聲」の嘆きを共にはしません。
世界の芸能界から雲の上の大スターがいなくなりました。
皇室も同様です。
メディアの発達により皇族の一挙手一投足さえ
人の目に触れ、否応なく日常が垣間見られる時代であれば
「神」であるための神秘性は、雲散霧消してしまうのが「今」です。
スター不在が現代の一つの特徴です。
かつての天皇も、庶民の手の届かぬ銀幕の星雲のかなたに
眩しく明滅する星でありました。
人をスターたらしめる要素は、大衆の美しい思い込みによる幻想が一つの
大事な要素です。
しかし、神秘性を保つ銀幕の砦のかたわら、テレビが、インターネットが出現して、スターは人並みに食し排泄する存在であることが、明るみに
出てしまいました。
スターが軒並み小粒になった時代です。皇室とてその宿命を
免れません。
しかし、禁裡が限りなく人目にさらされ、内なる人々も人間に近づくということは皇室が王室となってしまうことであり、王室になく皇室にあるものは祭祀と、神話です。
天照大御神を祖として、神武天皇から始まる男子一系の「神話」を
崩せば皇室は瓦解、他のものに変質します。
祭祀を形式として捉えるか、何か実効を伴う日本国の屋台骨に関わる
ほどの祈りの儀式として捉えるか。前者で考えるなら、次第に皇室不要論に
傾いていく。それが必然です。
ーー上記を推敲しつつたぶん 続くーー
東宮とその妃への懸念を多々、述べて参りましたが基本は次代で
祭祀絶え果てるのではないか、とその一点に集約されます。
「新しい公務の形」などと、わけわからぬことをおっしゃるのは、
まだ些末事として、順徳天皇が「禁秘御抄」に書き記された
御遺訓の通り皇室は「凡禁中作法先神事、後他事」であり、
公務、皇室“外交”などは「他事」で、祭祀に比べれば付属でしかありません。
他の何物にも先行して、まず禁中では神事を行え、と。
東宮が禁中神事の意義を理解、それを行う意志と能力有りや無しや、という
ことでしょう。しかしながら、天皇陛下ご入院時の宮中最大の神事
「新嘗祭」は掌典長が代行、皇太子はなさっていません。
聞き及ぶところによれば、祭祀には天皇から皇太子へと「一子相伝」で
伝えられる秘儀あり、掌典長ですらそれは心得ぬとの由、天皇陛下もご高齢で祭祀の短縮が試みられる状況下、果たして皇太子に相伝はなされているのか、
皇太子のご様子を拝するにつけ、甚だしく心もとないことではあります。
一子相伝の部分がもし口伝に限定され、書き物も残されてないとあらば
皇太子の代で2675年の長きにわたり紡がれて来た祭祀の糸が、
ぷつりと切れ、いったん切れればもはや修復の術はありません。
祭祀なき皇室は皇室ではなく、祭祀行わぬ天皇はもはや天皇ではありません。
天皇とは何かとその基礎を鑑みるに、無私の心で国と民の平穏と繁栄をひたすらに願う祭祀王であると言えましょう。我が身とその家族の幸せは二の次として時に我が身を犠牲に、国と民を祈るゆえに民もその御心に感応、尊崇と富とを御捧げします。
あられもなく申せばそのgive and takeが失せた時、皇室は弱体化への道を歩み、思えば現在の諸状況はすべて敗戦後のGHQの施策に端を発する事、現在まで縷々述べて来た通りです。
皇(すめらぎ)が人となりたもうたことに対して、異は唱えぬのは冒頭述べた通りですが、しかしながら「象徴」という、まことに定義のあやふやな言葉を憲法で用いられたばかりに、恐れながら天皇ご自身も自らを神に仕えるもの、神との媒になるものとして全うなさるのか、人間としていかに振る舞うべきか、基点を定めかねる点が必然的におありでしょう。
なぜなら法の定める人間としての規定はあっても、神武天皇に遡る「神話」は厳然といまだ有り、神話を肯定するなら自らを神の系譜に連なるものとせざるを得ず、しかしそれを肯定するとGHQが決めた法に背く二律背反にさらされざるを得ないからです。
その二律背反にさらされ混乱しているのは、日本の保守も同様ですなわち
天皇陛下の「人間としての」お言葉に含められた「憲法護持」「九条堅持」を
肯(がえ)んじれば自らの立ち位置たちまち崩壊。批判すれば天皇への
言挙げと、自らに禁じてきた則を破ることになり、それゆえ苦し紛れに
彼らが取るのは「見ざる、聞かざる、言わざる」であり、力弱く
天皇の言葉を牽強付会の擁護をする。こんなこと長続きはしません。
欺瞞なのですから。
現在の保守の悲劇は、本来「神」として仰ぐがゆえに、言挙げするは不敬であると、素朴に言い切れたものが、人としての主観的お振る舞いとご発言が勝って来ると、不敬という言葉も、意味をなさなくなるからです。
天皇たるもの無私であり、政治的発言は本来なされてはならぬものでしょう。
なぜなら、たとえば「憲法護持」をおっしゃれば必然的に、憲法改正を
党是に掲げた自民党に背くお立場、安倍政権へのアンチ表明は安倍政権を
選んだ国民へ、天皇との対立事項を突きつけることです。
お慎みください、と申し上げることは不敬には当たらないでしょう。
天皇陛下の弥栄と、皇室の存続を願うからこそ、やむを得ず発せられる
言葉だからです。
現在の状況が続き、皇太子へと引き継がれれば国民の保守層は
相矛盾する二つの命題に引き裂かれ口ごもり、共産党や自虐史観反日の運動家たちがこぞって明快に天皇発言支持という、まことにもって倒錯した状況となってしまいます。
天皇はひとまず、対外的には象徴的、聖なる記号であり続けていただきたいというのが拙稿のテーマです。象徴も記号も、具体的な言語を発してはなりません。
要は政治や外交に及ぶ思想は内々に秘め、
祭祀をまずは大切に、ご高齢でおつらければ皇太子に、もし皇太子に
意志なく器でないと思し召しなら、内々にでもよろしいので、
秋篠宮殿下にご伝授を、と願うものであります。
巷間、囁かれているように、皇太子の第一子(愛子様)を天皇に据える如き
お望みが皇后陛下におありとすれば、これは由々しきこと、
事実でなければそれこそ、憲法護持ご発言など二の次に、自らの談話できっぱりご否定なさらぬと、国民の間には、皇后陛下の「A級戦犯発言」に端を発して、疑心暗鬼が広がっており、これは皇室と国民双方にとって、不明朗な心地良くない状況でございましょう。
ーーたぶん、続くーー