p46 両陛下のお住まいのある吹上御苑には、数えきれないほどの草や木が繁茂している。
略
歩いていると、けたたましい羽音に驚かされることがしばしば。キジが人の気配に驚いて、一筋の草深い小道を矢のように走り去って行く。
略
樹齢三百年を超えるケヤキ、樹齢百五十年以上のクロマツのほか、モミジ、イチョウ、スズカケ、アオギリ、エンジュ、サクラ、トチ、ムク、モチ、カヤなどの大木が所狭しと林立している。
手入れをせず、自然のままに放っておくように、というのが天皇裕仁の戦前からの指示であったから、御苑の森はいつしか武蔵野の昔に戻っていた。
季節の草花が咲き乱れ、小川が流れトンボが飛び交いホタルが明滅、様々な小動物、鳥たち。昭和天皇が戦前から愛でられた森の静寂。都内の貴重な自然の一画を破壊、そこに住む動物や鳥たちのすみかを奪っての、今上陛下と皇后陛下のお住まい。
56億円は、土地代は無くまた施工業者の名誉としての奉仕価格なので、民間では3倍ほどの価格に相当するという説も、見かけます。
神道を旨となさるはずの両陛下の、動物たちを追い出しての自然破壊加担、その優しさの欠如に、やるせない思いが募ります。
人はどのみち、自分たちの都合で他の生命を食し、また追い出して生息せざるを得ない業を背負っていますが、だからこそ無益の殺生を戒める心を持って来たのが大和の民ではなかったでしょうか。
現在の皇居にキジは生息しているのでしょうか。絶滅に追い込まれた動物たちはいないでしょうか。
吹上御所に手を入れられ暮らされれば十分であったはず。
経済効率の見地から新築のほうが、効率がよかったという説も見かけますが、経済の問題ではありません。
また両陛下が新しいお住まいの建設に際して口を挟まなかった、ということも言われていますが、にわかには信じられません。建設そのものを峻拒なさる選択肢はあったはずです。まして今上陛下は父たる昭和天皇の森への真摯な思い入れをご存知であったはず。
皇后陛下が週刊誌や雑誌の記事に目を通され、不本意な記事には侍従たちを通して、抗議させるその細かい口出しのさまが、浜尾元侍従の談話で証言されています。
そこまで口出しされる皇后陛下が、ましてお住まいに関して周囲の思惑のまま、唯々諾々と従われたでしょうか。ご自身たちへの記事に敏感であられるなら、なぜ中韓の横暴と反日を正確にはご存知ないのでしょうか。
対外的なステータスとしての建物をいう人がいますが、新興国ではあるまいし、
お住いで見栄を張る必要が日本にあるでしょうか。
迎賓館なら他国の猿真似の、下品なほど絢爛豪華なものがすでにあるではありませんか。
他に誇るべき寺社仏閣が全国に散らばっていて、とりわけ京都のそれは敢えて誇らなくても、世界が知っています。
質素なお住いのほうに感銘を受ける人々のほうが実は多いのではないでしょうか。
世界における天皇陛下のステータスを知らない各国要人はいません。
建物で権勢を誇る必要はないはずです。
震災となれば、お住いでも節電をなさっていると「美談」が伝えられますが、初めからこんな電力食いの大建物を建築しておいて、そらぞらしくはないでしょうか。
節電より、妃の「ご体調」を理由に被災地見舞いをすっぽかされる皇太子を、一人で被災地にやるのが先ではないでしょうか。
森を切り倒し動物や小鳥を追い出して建てる御殿を、誇らしいと思う日本人も
いるのでしょうか。
皇后陛下の時にこけおどしの、下品に堕したお衣装の感性と重ねあわせ、思うところがあります。
お衣装を擁護する人たちもいるようですが、この金ピカマントは
最近の物であり、かなり特殊なご趣味ではないでしょうか。
(むろんデザイナー故植田いつ子氏の感性による素晴らしい衣装もおありです。和服は100%見事です)
皇后陛下の現在のデザイナーは、ユニクロのデザインを手掛ている男性デザイナー滝沢 直己氏です。
「尖閣諸島は中国の領土です」ユニクロ社長http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/4b853af2315efd71448ebc01d9d9bd05
世情を探るに熱心な皇后陛下がなにゆえ、尖閣は中国領だと言ってはばからない反日企業に加担してお金を得ているデザイナーを起用、国民の税金をお手渡しになるのでしょうか。
「天皇の国師」という書物を巡って、天皇小論を試みていますがアンチ皇室論の意図は無く、意図は逆で今後のあらまほしい皇室を考えるよすがとしての、小論です。
とかく意見そのものは、皇室破壊主義者と重なる部分がありますが、峻別して頂きたいと思います。
(つづく、かもしれない)
皇室の「偽善」ということから派生して、皇太子殿下の誕生日談話に込められた
嘘について軽く触れておきたいと思います。
>これからも被災地の復興に心を寄せるとともに,防災に関して,関心を持ちつつ,私ができることをやっていきたいと考えています。
心を寄せると言いながら、震災ちょうど一年目のあろうことか月命日に、
御所で「お楽しみ会」。一日中はしゃいで過ごされました。
被災地には、行く行くと伝え、現地ではそのつど行方不明者の捜索を中断して
お迎えの準備。しかしドタキャン。
やっと出向けば、お食事付き一泊大名旅行で、肝心の被災者に
会ったのは10分。あれ言うな、これするなの事前条件付き。
その他には大通りの交通を遮断してのお手振りパーフォーマンス。
味噌の偽仕込みパーフォーマンス。
>戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう過去の歴史に対する認識を深め,平和を愛する心を育んでいくことが大切ではないかと思います。
「繰り返す」という主語は日本なのですか? 先の戦争が日本だけの責任ですか? 日本人が戦争をしないといえば、侵略はされないのですか?
竹島は盗られたまま。尖閣には中国が迫り、母上は「尖閣は中国のもの」と言って憚らぬ、ユニクロのデザイナーを国費を使ってお抱え。
「A級戦犯」と、日本国ではもはや存在もしない「戦争犯罪者」呼ばわりで、ご遺族を侮辱。
あの方たちを戦争犯罪者呼ばわりなさるなら、あの当時命を賭けて日本と
皇室を守ろうとした私達の先祖も皆、犯罪者なのですね。
>雅子は,治療を続ける中で,体調をその都度整えながら
11年間こればかり。
もう「体調」という呼称の偽善はマスコミと共に止めませんか?
体調ではなく「精神病のアップダウン」です。
精神疾患で、将来皇后陛下が務まりますか?
>また,東宮御所内の仕事などでも,私をよく支えてくれる一方,愛子の成長にも心を配ってくれています。
支え? たとえば?具体的に何でしょう。来賓のお迎えに、玄関先に
出ることすらなさらない雅子妃の支えとは何でしょう?
ついに、皇太子の見送りお迎えまで、なさらなくなっています。
また、皇太子のシワだらけのスーツや、股間のシミ放置など、
庶民の嫁ですら、ないことですのに。
>両陛下には,雅子の体調をお気遣いいただき
>このように,雅子は,確かに快方に向かっておりますが,これですぐに活動の幅が広がるわけではないと思います。お医者様からもご助言を頂いているように,体調を整えながら,引き続き,焦らず慎重に,少しずつ活動の幅を広げていってほしいと思っています。
徹頭徹尾、「自分の家」のことばかり。国民不在。
心配と迷惑をかけて申し訳ないという言葉がこの方の口から出ることは
今後もないでしょう。立場への自覚と責任感が皆無なのです。
>愛子は,昨春から学習院女子中等科に進学し,元気に通学をしております。
こういう嘘を平然とおつきになれる神経。倫理観の欠如。国民をだますことに、何の痛痒も感じられないのでしょうか。国民の多くが、愛子様が不登校気味で、定期試験すら受けていらっしゃらない状態なのは知っているのに。
>実録は,昭和天皇ご一代のご事蹟せきを客観的資料に基づき記したものであり,実録の内容の公表を通じ,多くの人が昭和天皇のご事蹟に関心を持ち,併せて昭和という時代への理解を深めることになればと思います。
人ごとのようにおっしゃらず、祭祀にご熱心であられた昭和大帝に学んでくださいませ。
>私も,国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をやっておりますので,
反日潘基文が任命。韓国への謝罪訪問のための前提づくり。
水の名誉総裁として、水の汚染についてなど国連でご講演。
それでいて、嫁の実家がからんだ水俣への慰霊は無視。
日本の歴史上最大の水汚染なのに、放置。
それにしても、毎度毎度ですが予め質問が宮内庁(ないしはご本人)の手で
選別され、都合の悪い質問は無視。(誰かの書いた?)原稿を事前に用意して読み上げるだけの談話は無意味でしょう。
3カ国プラスバチカン訪問の時の皇后陛下は、事前に承知してない
質問に対して逆ギレ、天皇陛下はアドリブで自分の言葉で
僅かに語られましたが、皇后陛下は断固拒否。性根のお強いことです。
バチカンでは、予定外のこととしてピアノで「アベ・マリア」を彈かれたのに。
「普段奏でてなければ、ここまで流暢には弾きこなせない」と評価をお受けに
なられました。
アベ・マリア賛歌を普段、宮中に鳴らされている皇后陛下。
皇太子を出産なさった数カ月後の会見での皇后陛下のお言葉。
「一番大切な事は、細かい愛情と忍耐とを持って子供の心を大事に大事に育てていく事だと思います。私は何よりも、やはり本人が幸せになってくれることを一番望んでおります」
将来の天皇陛下をお育てになるという覚悟なく「個人としての幸せ」追求。そして子育てはバイニング夫人が薦めたような、庶民流アメリカ流。
その結果が現在の皇太子です。
ちなみに、同じ誕生日の談話でも秋篠宮殿下の談話は心がこもり、お話の内容が具体的なのです。関心があれば比べてみてください。
いかに皇太子談話が、あたかも誰かの作文を読み上げているかのように
皮相で、浅いかが解るでしょう。
天皇はその厳しいまでの孤独とある意味で生まれながらの不幸を
自ら引き受け、その無私のある種の自己犠牲に対して民は
尊敬と、それから莫大な待遇とを捧げています。
待遇を享受しながら人並みの幸せが欲しいは通りません。
皇太子時代に退位なさるべきでしょう、一般の炉端の幸せを
お望みなら。
それにしても、質問を事前に選別、質問自体が予定調和なのに加えて、
誰が用意したかわからない作文をベースに、優等生的問答が現在の皇室記者会見の空疎さです。
ある程度はお立場上仕方ないこととして、皇太子の情が欠落した優等生作文に基づくご挨拶なら、もう不要ではないでしょうか。
(つづく、かもしれない)
両陛下の森を潰してのお住まい建設に触れましたが、貧乏をなさって
くださいませ、というのではありません。自然を壊し動物が生きる場所を
奪ってまでの豪勢な御殿が必要ですか、そしてその上で「節電」など
意味がありますか、という問いかけに過ぎません。
以下昭和天皇の質素ぶりです。無論、時代も時代によるお立場も異なるので
今上陛下と皇后陛下とただちに比べるわけにも行きませんが、しかし
先帝のお姿を知っておきたいと思います。
*鉛筆は短くなるとサックをつけ、なるべく最後まで使いきろうとされた。
ノートは端の余白部分まで、使い切るまでご使用になった。
内舎人(天皇身辺の雑役)の牧野名助(もりすけ)氏によると、
*「室内の調度品も、なかなか取り替えようとなさりませんでした。
イスなどは、私がお仕えした20年間でも、
一度だけしか取り換えなかったと記憶しています。」
*皇太子が学習院初等科を卒業した1946年(昭和21年)3月、
昭和天皇のお祝いは、宮内省の写真部にあった中古の写真機だった。
「これでよろしい。皇太子には、これが手ごろだよ。
あまり立派な物や、高い物を与えては、
将来のためにならない。」と昭和天皇は述べた。
*学習院初等科に入学した
裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇)に対して、
学院長である乃木希典(陸軍大将)は、
乃木は、裕仁親王に尋ねた。
「殿下は、どうやって学校に来られますか。」
「馬車で来ます」と親王が答えると、
うると乃木は「これからは、雨の日でも、歩いて来て下さい」
以降、歩いて通われるようになった。
乃木の言いつけは更に、
「穴が開いた服を着ているのは、よくないことですが、
つぎはぎをあてるのは、恥ずかしいことではありません。
穴が開いたら、つぎはぎをあてて着て下さい。」
海軍侍従武官として4年半にわたり、 昭和天皇に仕えた
山澄貞次郎によると、
「政務室は密室で暑く、自分たちは汗だくだったが、
その中で、お上(昭和天皇)は、きちんとしておられた。」
今上陛下(皇后陛下も)、そして皇太子は「平和憲法護持」九条墨書を仰り、
皇后陛下は「A級戦犯」呼ばわりまでなさり、戦争に関わった方たちを犯罪者扱いなさいますが、昭和大帝は戦争に反対の立場であられても、
いざ開戦となると、放置はなさっていませんでした。
”大東亜戦争の開戦”を 布告した詔書(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
「現代語訳」。
「私(昭和天皇)はここに、 アメリカ及びイギリスに対して、宣戦を布告する。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
まことに、やむをえない事態となった。 このような事態は、私の本意ではない。
米英両国は、日本の周辺において、軍備を増強し、
更に日本の平和的通商にあらゆる妨害を与え、
ついには意図的に経済断行をして、
日本の生存に、重大な脅威を加えている。
私は政府に、事態を平和の裡(うち)に、 解決させようとしてきたが、
米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、
むやみに事態の解決を遅らせようとし、
その間にもますます、 経済上・軍事上の脅威を増大し続け、
それによって日本を屈服させようとしている。
このような事態がこのまま続けば、
日本の存立は、まさに危機に瀕することになる。
ことここに至っては、 日本は今や、自存と自衛の為に、決然と立ち上がり、
一切の障害を破砕する以外にない」
「自存と自衛」と明確に述べておられ、マッカーサーも後に、
「日本の自衛のための戦争であった」と明言しています。
米国の奴隷化覚悟で、非戦の道は選べたにせよ、あるいは
歴史の流れの中で、それが正解だったかも知れぬとはいえ、
当時の万やむを得ぬという状況の中、立ち上がった人々を
犯罪人呼ばわりは、これはよろしくないでしょう。しかも
一方的に日本が悪かったような、おっしゃりよう。
当事者でもあった昭和大帝への貶めでもあるのではないでしょうか。
1943年(昭和18年)、
アッツ島の守備に就いていた、 山崎保代(やまさき やすよ)部隊長から、
玉砕の決意を伝える悲壮な電報が届く。
「自分(山崎保代)は、アッツ島守備の大命を拝し、 守備にあたってまいりましたが、アメリカ海兵隊が上陸し、 任務をまっとうできなくなってしまいました。
まことに申し訳ありません。
明朝を期して、全軍で突入しますが、
同時に一切の通信機を破壊し、暗号書は焼却します。
皇国の無窮(むきゅう)を、お祈りしております」
昭和天皇は、この報告を静かに聞いた後、
「アッツ島の山崎部隊長に、電報を打て。
『アッツ島部隊は、最後まで非常によくやった。 そう私が言っていた』と打て」
だが、山崎部隊は玉砕した後。
すでに、この世にいなかった。
また通信機が破壊されているので、
天皇の電報は、届かない。
そういう部下に、天皇は言った。
「届かなくてもいいから、電報を打ってやれ」
開戦に反対の立場ではあったが、戦いに臨んで昭和天皇は
非積極的ではありませんでした。
ミッドウェー海戦(1942年6月5日)について、
昭和天皇は、海軍の永野修身(ながの おさみ、軍令部総長)に、
「これ(ミッドウェー敗北)により、 士気の沮喪(そそう)を来たさないように注意せよ。なお、今後の作戦は、 消極退嬰(たいえい=しりごみ)とならないようにせよ」
南太平洋海戦(1942年10月26日)については、
「搭乗員を多数、失ったのは惜しむべきだが、
多大の戦果をあげ、満足に思う。
なお一層、奮励するよう、長官に伝えよ」
・・・・・・このような事実をご承知での、今上陛下と皇后陛下、皇太子の
誕生会見におけるお言葉なのでしょうか。昭和天皇に講義を続けた三上は特攻隊員で緋弾による重傷で飛び立てず、かろうじて生き延びた男でした。
(つづく、かもしれない)
P67 入江侍従長は別室に三上を呼び、「講義のお礼をしたいと陛下が
言っておられるが、なにしろ手元が不如意なので、お礼はネクタイだけにしてくれないか」
奢侈の極みを尽くされながら、それはお立場からして、いいとして・・・・
先の戦争を完全否定しつつ、貧困に耐えつつ散った日本人たちを犯罪者よばわりなさることに割り切れない思いが残ります。
P68 天皇の衣服の慎重もままらなず、長年着込んだ背広で間に合わせていた。
ネクタイを、と言われた三上はそれを断り、天皇のいる部屋につかつかと入ります。
そしてお礼をと言われるなら、私の歌を聴いてくださいませ、と。
歌い始めた三上に、天皇とその場にいた皇太子がさっと椅子から立ち上がり、直立不動の姿勢を取られます。
三上が歌ったのは、当時第二国歌とされていた「海ゆかば」。
海ゆかば 水づくかばね
山ゆかば 草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
顧みはせじ
P69 この歌は、三上が特攻隊にいたとき、毎日腹の底から歌っていたものだった。
幾多の若者たちが、陛下のみ名のもと、愛する父母、弟妹、ふるさとのために
命を捧げました。
それを、A級戦犯という言葉で一括りされ、アベ・マリアを愛される平成の皇后陛下。
昭和の時代の天皇皇后の距離感。距離は天皇陛下への敬意です。
天皇皇后である前に、男女であって何が悪い、という考え方もあるのでしょう。
しかし、その考え方を敷衍すると神道の祭祀王としての天皇陛下への敬意は薄れ、それは国民にも影響を及ぼします。皇室は王室ではありません。そのことの意味をお考え頂きたいのです。