「天皇とは何か」という基本的命題を明瞭にせぬまま、廃太子論へと急行しているので、ついていけない保守たちが「不敬」を旗印に批判派を糾弾するのである。
現在の皇太子と妃殿下の肯定は、実は本来の意味での皇室の否定に等しい。
祭司抜きに天皇の存在はあり得ず、したがって宮中内祭祀と外の神事に不熱心な皇太子が次期皇太子としての有失格者足り得ないのではないか、ご神事に熱心で神事の本質も弁え、かたわら公務にも余念がない秋篠宮こそが、天皇にふさわしいというのが、当ブログでの終始一貫した提案である。
皇室典範改正に至らずとも、皇太子、妃殿下、お子様とお三方連れ立っての皇籍離脱は可能なようなので、離脱論を提案したところで画餅でもないだろう。
離婚という形態が一番現実的に容易であるけれど、あれほどご家族に密で、ありとあらゆる国事や神事にも先駆け、ご家庭を優先なさる皇太子のお姿を拝するに、こちらは非現実的な提案であろう。
理想的解決とも思えぬが、諸事皇太子の即位が避けがたくあるならば、形ばかりの即位にて、実質的なお仕事は秋篠宮家に委ねる摂政という手立ても、一種の妥協案としてはあろう。
即位の儀への参加すら危ぶまれる皇太子妃のご様子からして、とてものことに皇后陛下としてのお務めは望めぬ以上、その病状に伴って天皇としての皇太子の有り様も劣化して行かざるを得ないのは目に見えている。何より日本の核におわす方が精神を病んでいらっしゃる状況は日本の陽気を削ぎ、陰気が増して国の勢いを奪う。
今現在の状態ですら多くの国民の怨嗟と失望の的となっているお二人が、即位と同時に素晴らしく生まれ変わるということはあり得ず、その逆に責任と存在感が増すにつれ、お二人の貧相を、嫌でも国民は目にせざるを得ず、となると皇室不要論まで噴出する可能性があり、双方にとって不幸ではあるまいか。
妥協案ではあるが、摂政は『日本書紀』に依れば、推古天皇のときの厩戸皇子(聖徳太子が摂政となったとされており、学説上は否定論もあるが、それ以降も摂政の例は一つ二つではない。
宮中祭祀を含め、主だったことは秋篠宮ご夫妻にまかせられ、皇太子は大切なご家族と思う存分、妻子第一のお暮らしをなさったらいかがだろうか。
将来の天皇皇后ということだから、国民の目も厳しい。できるなら、秋篠宮に譲位され、何らかの形で引退を表明なされば、妃も気がお楽であろう。
ただしその節は、宮中費、護衛の数、すっぱりと秋篠宮家に譲られ、ご自身とご家族は、今の秋篠宮家の規模に甘んじねば道理が立たないが、遊んで暮らしている人たちには、それでもあり余る優遇ではある。
さて石原慎太郎氏の「祭司たる天皇」という小論文を読みながら、天皇がなぜ祭司でなければならぬか、祭祀を放棄した天皇がなにゆえ天皇足り得ぬか、いくばくか考察してみたい。
石原慎太郎氏は、その昔三島由紀夫氏との対談で、三種の神器も、宮中三殿も知らぬことを露呈した人で、宮中祭祀をその時点ではご存知なかったようだが、この小論文を拝する限りそれ以降お勉強なさったらしく、内容にさして齟齬はなく大枠正しくまとまられているので、まずはこちらを読んでいただきたい。
2006年2月6日発売の産経新聞より転載
産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/
祭司たる天皇
最近になってにわかに天皇の皇位相続についての議論がかしましいが、この問題を論ずる前に国民にとってそも天皇なるものはいかなるものなのかを考えなおす必要があるような気がする。
敗戦後から今日に至るまでの時代において、日本国民にとっての天皇の意味を示したものは主に憲法だろうが、その第一条に『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』とある。
この起草者が日本の歴史と文化をどれほど確かに踏まえてこの文を綴ったのかは定かではないが、象徴というわかるようでわからぬ言葉にこめられたもの、またこめなくてはならぬものについて、今の日本という開かれた市民社会の中でもう一度確かめなおす必要があるのではなかろうか。
憲法に『国民統合の象徴』と唱われている限り、天皇制の存在は日本という国家社会にとってのいわばアプリオリ(先天的)なのだろうが、ならば天皇は何ゆえに国民統合のための何の象徴なのか、なぜに象徴足り得るのかを。
憲法には思想と信教の自由が保証されているが、国民の中には共産党やその共鳴者のように天皇制そのものを否定してかかる者もいようがそれはさておいても、個々人の信条に強く関わる信教に関しての自由が保証されている限り、憲法の建て前からすれば天皇の存在は国民個々人の信仰の違いとは矛盾してはならない筈である。
しかしながら私は天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。人類の歴史の中に同じものを探せば、古代エジプトのファラオに例を見ようが、現今の世界には他に例がない。さらにいえば天皇は神道の最高の祭司に他ならない。ならば神道もまた宗教の一つではないかという反論があろうが、私には神道は宗教というよりも日本人の心情、感性を表象する日本独特の象徴的な術だと思われる。
その根源は日本という変化の激しい特有の風土にまみえてきた古代人が、自然への畏怖と敬意と賛仰をこめて編み出した、万物に霊性を認めるアニミズム(精霊崇拝)の上に成り立ったシャーマニズム(予言など超自然的存在との交流による宗教現象)にあった。そうした汎神論はたとえば那智の滝を御神体として祭った那智大社別宮飛滝権現神社であるとか、三輪山そのものを祭った奈良の大神(おおみわ)神社の存在に如実に表れてい、その集大成が伊勢に他なるまい。
私はかつて、熱心なカトリック教徒である曽野綾子さんが伊勢を訪れた折の感動を記した文章に強い印象を覚えた。彼女はその中で伊勢こそが日本人の感性、精神の原点だと悟ったと記していた。それは優れた芸術家の感性を証す、宗派などという人間が後天的にものした価値観や立場を超えた、人間たちの在る風土が育みもたらした人間にとって根源的なものへの真摯で敏感な認識に他なるまい。
日本の風土が培った独特の汎神論はその後伝来した、これまた他の一神教と異なり多様な聖性を許容する仏教と容易に混交融和して今日の日本人独特の、決して宗教的なものにとどまらぬ、いわば融通無碍(むげ)な価値観とさらにそれに育まれた感性をもたらした。
そしてそれについて、一神教がその大方を支配する今日の世界の狭量な価値観の対立と混乱を予測したのかアインシュタインやマルロオのような優れた感性の識者は、日本人の価値に関する感性こそが人類の救済に繋がるともいっている。そしてその感性の表象こそが神道なのだ。その限りにおいて神道は宗教の範疇を超えた日本人の価値観の表現の様式であり、民族としての自己表現の有効な一つの手立てに他ならない。
そしてさらに、天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない。過去の歴史の中で天皇はさまざまな形で政治に組みこまれ利用もされてきた。武士台頭以前の時代には公家支配の核とされ、近代にいたり軍閥跋扈の時代には大元帥として軍事の統帥者とされ、太平洋戦争時には人間ながら現人神(あらひとがみ)にさえされてしまった。
それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。
私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。戦後からこのかた皇室の存在感の在り方は、宮内庁の意向か何かは知らぬが、私にはいささかその本質からずれているような気がしてならない。たとえば何か災害が発生したような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか。その限りで私にとって天皇が女性であろうとなかろうと関わりないことと思われる。
その故にも、以前にも記したが天皇陛下には是非々々とも靖国神社にお参りしていただきたい。それは「靖国」が決して政治問題などではなしに、あくまで日本の文化神髄の事柄なのだということを内外に示す決定的なよすがとなるに違いない。
・・・・・引用ここまで
>最近になってにわかに天皇の皇位相続についての議論がかしましいが、この問題を論ずる前に国民にとってそも天皇なるものはいかなるものなのかを考えなおす必要があるような気がする。
「天皇とは何か」という基本的命題を明瞭にせぬまま、廃太子論へと急行しているので、ついていけない保守たちが「不敬」を旗印に批判派を糾弾するのである。
基本命題を明らかにすれば、いかに皇太子と、付随して皇太子妃があらまほしき天皇陛下皇后陛下としてのお姿から遠いか、理解できるはずである。
現在の皇太子と妃殿下の肯定は、実は本来の意味での皇室の否定に等しい。
>敗戦後から今日に至るまでの時代において、日本国民にとっての天皇の意味を示したものは主に憲法だろうが、その第一条に『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』とある。
安倍自民の志向する憲法改正が成就の暁には、象徴に添えて「元首」の二文字が加わり、象徴というぼやけた単語が輪郭を帯びる。
天皇の役割が曖昧模糊としている今、「元首」という文字をまず添えて、内に於ける祭祀、外へ向けての権威、ということでより天皇の存在が明確になるということであり、望ましき改正であると思う。
但し、それと共に「元首」という言葉が憲法に謳われるなら、国家国民を更に一義にすべき立場となり、現在の、海外公務に出ればカメラパシャパシャの物見遊山、口を開けば「雅子が、愛子が」。歌会始の歌は家族の歌ばかりという皇太子では勤まらない。
> この起草者が日本の歴史と文化をどれほど確かに踏まえてこの文を綴ったのかは定かではないが、
何も踏まえていはしない。しょせん、文化的には建国浅く、いまだ文化の懐浅き頃のアメリカ人の作成である。石原氏もそれを踏まえて、こういう表現をしたのだろうが。
>今の日本という開かれた市民社会の中でもう一度確かめなおす必要があるのではなかろうか。
天皇の継承権が言われ女帝の誕生すらまだ言われている今こそ、確かめなおす必要がある。
>天皇制の存在は日本という国家社会にとってのいわばアプリオリ(先天的)なのだろうが、ならば天皇は何ゆえに国民統合のための何の象徴なのか、なぜに象徴足り得るのかを。
結論から言ってしまえば、天皇「制」がa prioriなのではなく、石原氏が後に述べるように、古代人のアニミズムとしての宇宙の素朴な感知と、それをより鮮明に
ロゴス化出来るシャーマン、祈り手としての天皇(的なる者)の誕生は、相前後して、ほぼ同時であった。
民族的共通認識としての霊感が、古代シャーマニズムの世界であり、それは日本人のDNAに長く著しく刻印されてあり、それゆえ日本人は宗旨宗派にかかわらず、新年は神社に赴く。
いわば日本人の精神性でもあれば、霊性でもある部分を古来より束ねてきたのが、大いなるシャーマンであるところの天皇であった。ゆえに「象徴」足り得るのである。
憲法では「統合の」象徴と浅く言いなしているが、実情は精神性と霊性との統合者が天皇なのである。
したがって、自らが神事を遠ざける皇太子が天皇足り得ぬというのは、けだし自明ではあろう。
憲法で言う日本国民の「総意」とは、正しく言えば「霊的同意」なのである。
>天皇の存在は国民個々人の信仰の違いとは矛盾してはならない筈である。
この点に齟齬はない。なぜなら後に述べるが、神道は排他的ではなく受容的であり、ありとあらゆる「宗教」を飲み込む奥深さを持っている。
なぜならそれは、厳密に言えば宗旨宗派という狭い枠に押し込められるべき
ものではなく、人間の(日本人の、ではない)魂の感受性、躍動の世界
だからである。
>そうした汎神論はたとえば那智の滝を御神体として祭った那智大社別宮飛滝権現神社であるとか、三輪山そのものを祭った奈良の大神(おおみわ)神社の存在に如実に表れてい、その集大成が伊勢に他なるまい。
宗教の行き着く究極は汎神論である。
世界の三大宗教は実のところ争いの種でしかない側面があり、「宗教団体」として集団が形成された時から、必然的に権力と金銭の腐敗の趣旨を裡に含む。
世界の宗教、いずれも必然として「行き詰まっている」のである。
日本の精神性に突破口があるのではないかと、禅に目を向ける西欧の
人々がいたが、実のところ彼らが求めているのは神道にある。いや、
神道と言葉にした時点で、限定されてしまうが、言葉の限定を超える
ある日本的悟りとでもいうべきもの。
むしろ日本人が常に常にそこへ立ち還って行くべき精神と感受性。
それこそが神道と一応名付けられる日本の霊性であり精神であり、
それを統べるのが、本来天皇なのである。
>その根源は日本という変化の激しい特有の風土にまみえてきた古代人が、
いや激しいのは、冬のみでそれも特殊に寒いのは日本列島の3分の1であり、
むしろ四季の変化は穏やかで、砂漠という苛烈な土地に生まれたアラーの神の
ような荒ぶる独裁神を日本は必要としなかった。
それと共に、四季折々の変化は、日本人の心に美しく繊細な屈託をもたらし、
和歌俳句を生んだ。
世界のどの王室にも、歌会始めというごとき、各王族方が一堂に会して
各々のpoemを披露する習慣など持たず、しかもそのpoemはフレーズが
それぞれ厳密に5.7.5.7.7でなければならず、ということは
他言語では成立しない「日本語でなければ」
成立し得ない雅な世界が堀の内で繰り広げられるのである。
しかも集う人々は、神武という名のご先祖を始点に、一系でつながってきた
familyであり、世界の稀種であるので尊重される。
素直、晴朗、平明が元来の日本人の精神性、即ち神道である。
大らかであるが、唯一穢れだけは、厳しく排除する。
「禊」の意識がかくして生ずる。
>熱心なカトリック教徒である曽野綾子さんが伊勢を訪れた折の感動を記した文章に強い印象を覚えた。彼女はその中で伊勢こそが日本人の感性、精神の原点だと悟ったと記していた。
取り立てて秀でる必要もない、霊的感受性が多少ある人なら等しく伊勢神宮では
清らかな霊感に貫かれる。それはアーノルド・トインビーも同じくであった。
世界のあらゆる宗教の源泉がここにある。
それは日本に属するというごとき、「せこい」自慢話ではない。行き詰まった世界の精神を伸びやかに打ち開き霊性をアウフヘーベンさせる、「何か」が満ちているのである。
さればこそ・・・・・その神道の最大至高の天皇陛下は、「人」ではないのである。
人間宣言したからといって、それはたかがこの世の、浅き呼び習わしのレベルであって、憲法と同じくアメリカに押し付けられ蹂躙されたものの一つに過ぎず、しかしアメリカのような精神文化の発展途上国がいじれる部分ではない。
そして・・・・・皇太子はまさに、悪しく人であろうとしている存在であり、祭祀にも
意味はおそらく見い出せずにいらっしゃる。妃に至っては論外である。
その意味で霊的な感受性という見地からも、祭祀者としての資質は秋篠宮殿下が豊かである。皇太子には恐縮ながら、ない。
国の内外におけるカメラ小僧と称される軽いお振る舞いを、「人間的」と
誤解なさっていらっしゃるのかもしれないが、そもそも次代天皇たる存在が、
人間的であっては困るのだ。なぜなら次期祭司だからで、祭祀には
様式という威厳が必須で、様式とは即ち「振る舞い」の別名である。
皇太子に「振る舞い」の概念はなく、したがって様式である祭祀には向かない。
>今日の世界の狭量な価値観の対立と混乱を予測したのかアインシュタインやマルロオのような優れた感性の識者は、日本人の価値に関する感性こそが人類の救済に繋がるともいっている。そしてその感性の表象こそが神道なのだ。
石原氏の仰るとおりである。
しかしながら、その神道の大いなる世界観を理解し得ぬ方が、あろうことか神道の最大最高のポジションに、わけわからぬまま自覚なきまま、その霊的に愚昧な伴侶と共に就こうとしていて、ご本人も多くの国民もそこに気づかないでいるところに危険性がある。
>私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。
「人間的になり過ぎないで欲しい」という要請なら、その通りだが、しかし
石原氏は五輪招致のために皇太子を海外に出したがっていらした。
これは自己矛盾であろう。皇太子をそういう形でこそ表に出してはならない。
なぜなら皇太子が出て行っても、五輪招致ならなかった、となれば
皇太子の神聖性がそこで崩れ去るからである。
尤も現在の皇太子は海外公務に出て、驚くべく稚拙なお振る舞いの数々を
海外のメディアに知られてしまっているので、原則論である。皇太子もまた
みだりに表に出るべからず、という意味でなら賛成である。
お召し列車の中からカメラ片手に、残った片手でお手振りなど言語道断で、
このような意識低い方に天皇陛下は無理。
五輪招致に皇太子が動くことを是認しながら、被災地に赴かず祈って
頂きたい、も妙な話。
天皇陛下がすでに生じた未曾有の国難の「後に」祈っていると民が知って
喜ぶだろうか。普段はお目にかかれない方が玉座から降りて同じ平面で
接してくださるほうが民には励みになる。
あちこちのどうでもいい式典や、ボランティア的なことにお顔を出される
必要はない。そこは同意である。
明け暮れ神事に邁進なさっていただきたい、とそのこと自体には同意。
但し、それを国民がしっかり知っておくことが何よりも大事である。
だから昔はそのために、休日には宮中内祭祀の名がつけられていた。
勤労感謝の日は、そのまま新嘗祭と呼ばれ、軒端に日の丸がへんぽんと
翻り晩秋の澄んだ青空に映えて、民は宮中の天皇陛下の祈りを
そうして察知した。宮中内祭祀の、ただごとならず大変なさまも、
そこに側面から皇后陛下が加わっていることも民は知っていた。
今はほとんどが知らない。
安倍政権には憲法改正と共に、休日の命名を旧に復することを提案したい。
GHQが押し付けて来たことには、憲法と共に、日本を強く向上させようという
意図のものはない。弱体化と停滞とがそこにあるばかりだ。
いつまでも、べんべんと従うことはない。
>その限りで私にとって天皇が女性であろうとなかろうと関わりないことと思われる。
これは違う。
天皇という存在は神武天皇を起点とする神話によりあがなわれているのであって、女性天皇は男子一系の神話を突き崩す。
それと共に、「神道的美学」ともいうべき見地から見て、清明、簡素という
特質に女性はふさわしくない。差別的意味合いではなく特質である。
祭祀者という観点から言えば、生理が女性にはつきまとい、人によっては
相当の痛苦もある。神事は厳密に日も時刻も決まり、待ったなし。
そこを目掛けて斎戒沐浴、身を清め神のみ前に佇む。
水で清めても、経血が内ももを伝っていては不浄なのである。
生理自体が不浄というのではない、最も「肉」から離れ、遠く高く
精神性の世界へと飛翔せねばならぬ時、女性の性は神聖さを削ぐ。
今でも、皇居内の神域では四足の肉が忌まれている。
なまなましきものを極力削ぐのが、神道の儀式である。
肉を食らうということは、そこに屠殺の修羅場が伴う。それを厭い、
神域では魚さえ避け、植物へと傾く。
またあらゆる場でそうであるように、男女が入り混じれば淫蕩の要素が
芽吹く。
カトリックとてそこを鑑みて男だけの世界にしている。
神道もまた、男のすなるものである。大相撲も神事であるがゆえに男しか
結界内(土俵)には上がれない。
したがって祭司たる天皇もまた。
差別ではなく、霊的美意識なのである。
女性には出産もつきまとい、一定期間は神の座から降りねばならぬ
こともあり、その不確かさによっても待ったなしの厳しい神事には向かない。
産休の代理教師のようには行かぬのだ。お作法さえ合っていればいというものではなく、そこに裂帛の気合いがこもらねば神とはつながらぬ。
>天皇陛下には是非々々とも靖国神社にお参りしていただきたい。それは「靖国」が決して政治問題などではなしに、あくまで日本の文化神髄の事柄なのだということを内外に示す決定的なよすがとなるに違いない。
まったくもって同意である。異論がない。
天皇陛下が靖国神社を参拝される時、おそらく日本の運命が劇的に
変わる。むろん、よきほうへ。
【備考】 石原さんはその後、天皇陛下の被災地ご訪問に関しては意見を変えたようです。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120402/imp12040203120002-n1.htm