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Channel: BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。
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モンテンルパの夜は更けて

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フィリピンに日本人の戦犯収容所がありました。かつて東京裁判の記事で述べたように、しょせん戦勝国側の都合のいい裁判でその欺瞞性も今は明らかになっていますが、ここでは触れません。渡辺はま子という一人の毅然とした日本の歌手がいたことを、彼女が歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」に託して、知って頂けたらと思います。
調べ物の途中でこの歌の存在を知り、哀切なメロディーと歌詞に心を揺さぶられ調べていると、ここにもあの戦争の真実の断片がありました。

フィリピンはモンテンルパ(Muntinlupa City)の戦犯収容所にいた死刑囚二人の作詞作曲です。

刑務所の教誨師 加賀尾は死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を頼んだ。代田はトイレットペーパーにヨードチンキをインク代わりに詩を書いていた。作曲は元将校の伊藤正康。モンテンルパの中の教会でオルガンを独習して弾いていた。伊藤も行った事もない土地での住民虐殺で死刑判決を受けていた。

無実の罪の死刑囚として、明日の命も知れぬ日々の中から生まれた真実の歌。

 

作詞:代田銀太郎
作曲:伊藤正康
歌唱:渡辺はま子
   

  (一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

この曲のリリースは昭和27年つまり戦後7年が経過した頃。
フィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌が大ヒットして、いまだ敗戦の苦悩にうちひしがれた日本に流れました。復興ならずあちこちに焼け焦げ爆破された廃墟がある頃です。

作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉。

歌ったのが当時のヒット歌手、渡辺はま子。彼女のもとへ、詩と譜面がモンテンルパ刑務所の教誨師から送られて来たのだった。サンフランシスコ講和条約から1年が経過して、もはや戦犯も免責されつつあるときに、いまだ異国で処刑されている日本人がいることを辛く感じた渡辺はま子は、自らこの死刑を待つ身の男たちが作った歌をレコード化、ヒットさせ、いまだ敗戦の疲弊から立ち直れないでいる日本人500万人が助命嘆願書に署名をする。
冤罪で処刑されるかつての兵士たちも多かったのだ。いや、
東京裁判の不実な内容、それから山下泰文の無罪での処刑を鑑みるに、実のところほとんどが無実ではなかっただろうか。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/afbc2ae8f4a799fb1bc04df4ae9bb526
(過去記事 山下泰文元陸軍大将の冤罪について)

渡辺はま子は戦争中、「宣撫慰問」の歌手活動の罪により、自らも捉えられ1年間、収容所に入っていた。そんな彼女にフィリピン政府から査証が降りるわけもなかったが、渡辺はどうしても異国の地にあり死を待つ元兵士たちを訪れてせめて歌を届けたかった。

周囲が制止する中、渡辺は密航を決意する。

「私は行く。行かねば。私に出来ることは歌うことだけ。香港経由でフィリピンに強行入国します。捕まろうと牢屋につながれようと、私は参ります」(一説には出発間際にビザが下りたとも)

かくして渡辺はま子の命を懸けた歌声が、モンテンルパはニュービリビッド刑務所の中に流れたのは昭和27年12月24日、あたかもクリスマスイブの日だった。亜熱帯のクリスマス。
40度を超す猛暑の中で、渡辺は振袖を着た。

死にゆく兵士たちに祖国の晴れ着をひと目見せてあげたい。
だから・・・・。この晴れ着が私があなた達に捧げられる
たった一つの花束だから。

  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く

振袖の渡辺が仲間の死刑囚の作った歌を歌い上げると、男たちはすすり泣いた。故郷にいる母を思い、残してきた妻を子を思い、男泣きにすすり上げた。

いずこの国にも仏の心を持つ人はいる。禁じられていた「君が代」を歌ってもいいと許可を出してくれた議員がいた。(デュラン議員)「明日は死にゆく君たちだ。国歌を歌いなさい、私が責任を持つ」デュラン議員こそは駐日大使で渡辺のファンであり、モンテンルパにいまだ日本兵が囚われの身であることを最初に渡辺に伝えた人物であった。

かつての日本兵全員が立ち上がり、日本の方角へ顔を向けた。その目は何を見ていたのか、富士の山か、老いた母の顔か、妻や子の顔か、ふるさとの山や川か・・・。

君が代は、千代に八・・・

しかし、後は続かなかった。ある者は床にひざまずき、ある者は拳を目に当て、嗚咽した。命惜しさではない。命は祖国の愛しき者たちを守るため棄てた、棄て去った。
だが望郷のこの思いは。せき上げるこの、恋しさは。母よ、ふるさとよ、愛しき者達よ! 明日は死にゆくこの身。祖国よ、せめて安穏にあれ、父よ母よ妻よ子よ、さらば、さらば。

 

だが、兵士たちは助かる・・・

 

無事日本に帰った渡辺はま子が旋律をオルゴールに託して、教誨師加賀尾秀忍へ送り届けた。そのオルゴールを持って、加賀尾はキリノ大統領に苦労の末、会う。

大統領がいぶかしい表情でオルゴールの蓋を開けると、こぼれ出たのは「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディーだ。
加賀尾は涙と共に、歌の出来た経緯を語り、戦犯たちの助命嘆願を訴えた。

静かに加賀尾の言葉を聞いていたキリノ大統領が口を開いた。「日本や日本兵を憎んでいるのは、私が一番だろう。なぜなら私の愛する妻と娘を日米の市街戦で失ってしまったのだから」

絶句した加賀尾に大統領は、言葉を続けた。

「しかし、このメロディの何という優しさなのだろう。戦争を離れれば、こんなにも優しい悲しいメロディを奏でる人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしては、戦争はなくならないだろう。必要なのは、愛であり許しなのだ」

つぶやくようにいった大統領の目も、うるんでいるようだった。繰り返していたオルゴールのメロディは、しだいにゆるいテンポとなり、やがて切れ切れになり・・・そして途絶えた。

 

死刑囚を含む全てのBC級戦犯が大統領の特赦を受けて釈放されたのは感謝祭の日のことであった。兵士たちの帰国が決まったのは翌月6月26日のこと。

 船をまちわびる横浜埠頭には、兵士たちの父母が、妻が子が、友が彼らの帰りを、彼らが日本の土を踏みしめるその瞬間を待ち侘びていた。その中にひっそりと渡辺はま子の顔があったのは言うまでもない。

 


刑務所から車で5分の所に日本人墓地があり処刑された日本人将校の皆様17名が眠っています。どれほど祖国日本へ帰りたかったことでしょう。

 

 

モンテンルパ刑務所

同処刑台

死刑判決はいいかげんなものでした。フィリピン人女性一人があれも、ひどいこをした、これも、と指差してその兵士が死刑囚となりました。

渡辺はま子の唄届かず間に合わず、処刑された方々のお名前を記して、もってご供養と致します。

 

三原菊市
 陸軍軍曹 香川県木田郡 四六歳
中村秀一
 陸軍大尉 山口県吉敷郡 五一歳
伊東益夫
 陸軍兵長 大分県大野郡 三四歳
小野安夫
 陸軍伍長 小倉市    三五歳
金田貞雄
 陸軍軍曹 大分県佐伯市 三三歳
上野勝四郎
 陸軍曹長 長崎県北高来郡 三二歳
衛藤利武
 陸軍曹長 大分県大分郡  三一歳
安部末雄
 陸軍中尉 大分県速見郡 四十六歳
斉藤助
 陸軍伍長 大分県国東郡 三十二歳
志賀富士男
 陸軍兵長 大分県直入郡 三十五歳
関森儀道
 陸軍憲兵曹長 長野県東筑摩郡 三十五歳
三木巌
 陸軍獣医中尉 北海道雨竜郡 三十五歳
鈴木光忠
 海軍主計大尉 栃木県那須郡 三十五歳
陣内起也
 陸軍少尉 長崎市 三十五歳

 

慎みご冥福をお祈り申し上げます。

 

(掲載写真は「東京裁判」新人物往来社 200年刊より)

 

 たとえば三原菊市陸軍軍曹の場合は、北部ルソンのカガヤン州バイバヨク橋梁の守備兵時代に住民を虐殺したという罪状であった。しかし制空権もない大東亜戦争末期に橋梁を守るために攻めてくるフィリピンゲリラと必死に戦闘の結果、たとえ殺したとしてもそれがゲリラと住民との見分けは困難だし、第一誰がその一般人を殺したのか区別のつく状態ではなかった。

中にはその土地に行ったことのない者が、その土地での虐殺を罪状に死刑台への階段を上らせられた。要するに本人がやったかやらぬかではない、復讐裁判だった。
東京裁判でも同じく、罪は捏造されて多くの処刑者が出た。

渡辺はま子 あゝモンテンルパの夜は更けて 1976

 

毅然と日本の女一人、ここにありき。

渡辺はま子 1999年(H11年)12月31日
89歳でその生涯を終えた。

フォレスタ - ああモンテンルパの夜は更けて


フィリピンは、一つのオルゴールの音色で日本を、日本兵を許した。
インドはイギリスを、ベトナムはフランスを責めない。
インドネシアは、慰安婦への賠償金を断った、我々は乞食ではない、と。
日本は元寇ゆえに韓国を責めたことはない。
いずれの国も、国としての誇りがあるからだ。

 

【備考】

上海帰りのリル(カラオケ)

冒頭、「ああモンテンルパの夜は更けて」が流行っていた当時の日本の荒廃した様子がわかります。

戦地における望郷歌二曲。

誰れか故郷を想わざる/三橋美智也

異国の丘

http://www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM
(以下はこちらからの転載文です。先の戦争の真実が簡潔に正確に述べられています)

▲70年前、日本は世界130数ヶ国相手に大戦争をした。この戦争­­­は白人の植民地主義に対し有色人種の大和民族日本が一億玉砕­を­賭­けて挑んだ自存自衛の戦争だった。なぜならアジアでは日­本と­タイ­だけが独立国家だった、アフリカはエチオピアだけが­独立国­家だっ­た。あとの国はすべて白人の植民地主義の餌食だ­った時代­だ。戦後­日本はアジアを侵略したという。しかし50­0年前から­白人国家は­有色人種を侵略していた。有色人種国家­では只一国日­本だけが戦う­力を持っていた。この戦争は白人の­植民地主義に対­し有色人種の日­本が挑んだ壮絶なる巻き返しだ­ったのだ。敗戦後­日本は東京裁判で­断罪された。平和に対する­罪で有罪。そしてア­メリカによる占領。­サンフランシスコ条約­で日本は独立した。の­ちに日本は戦争犯罪に­問われた人たちの­名誉を回復するため国会­決議をおこなった。よっ­て靖国神社に­は戦争犯罪人はもういない­のだ。のちに東京裁判のキ­ーナン主­席検察官は(日本を断罪した­のは間違いだった)と言って­いま­す。インドのパール判事は(日­本は自衛のため戦った、日本の­­侵略戦争は歴史の偽造)と言って­います。

 

人間は時として立ち上がらなければならない事もあるのだというこ­とを。

先の大戦は確かに酸鼻を極めました。二度と繰り返してはならない­ことも又確かです。

しかし、今も北朝鮮に拉致された人たちが「祖国の土を踏むこと」­を願って絶望にくじけず生きている現実を見ておられるのでしょう­か。

尖閣諸島の暴挙を、竹島の壟断を、北方領土の強奪の現実を目の前­にして、

それでも「何が何でも平和を」と言い切れるのは、いったい気持ち­とはどういうことでしょうか。

これこそ、戦後65年にもわたって、我が日本をこれほど貶めてき­た「空想的平和主義」願望そのものではないでしょうか。

時として、国民は同胞を救出し、誇りを守るために戦争をも辞さな­ければならない場合もあるということを、どうか解ってください。

 

▲日本は自国を守る為に戦争をせ­ざるを得なかった。この戦争で救われた国は沢山ある。今のアジア­諸国は日本のお陰で今日の様に成長した。この日本に対して中国や­韓国はドロボーや詐欺師の行為をしている。日本で平和主義を唱え­ている人達は本当の国際社会を知らない。平和主義は存在しない。­それは寝言に過ぎない。インドも核兵器、北朝鮮も核兵器、中東の­国も核兵器を持つだろう。どこに平和主義があるの?アメリカの政­治家達の中には日本も中国や韓国や北朝鮮にバカにされない為にも­核兵器を持つべきだと言っている。石原前都知事も言っている。本­当に日本を愛している人達は日本も核兵器を持つべきだと思ってい­る。核兵器を持っても絶対に戦争は起こりません。核兵器を持てば­日本は国際社会でもっと強くなれます。日本の方、早く目を覚ませ­て下さい。ピーターH.櫻井(アメリカ在住)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・転載ここまで

靖国神社には、日本のため、またそこに暮らす愛する人達のために命を捧げてくださった方々の御霊がお祀りされています。どうぞ一度ご参拝ください。参拝叶わぬ方々は、束の間でも御心を靖国神社の方へ向けてください。
英霊は切れば血の吹き上げる肉体と心持った私達と同じ人間でした。
祖国を思いながら息絶えた兵士の横たわる異国の地にもどうぞ
靖国を通じて心を向かわせてください。


靖国神社には戦地で落命した軍馬や鳩、犬達もお祀りされています。

世界にいつかまったき平和が訪れますように。でも、今は・・・その平和を守るために、軍備が必要です。
残念なことですが、九条の存在は国の守りではなく危機へと誘(いざな)います。

邪悪な国ある限り、国は父母は子らは自らが守らねばなりません。


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