不勉強でお恥ずかしいのですが、今日まで大阪の靖國神社ともいうべき「護国神社」の存在を知りませんでした。関西エリアの方々にはとりわけ、ご存知のことでしょう。
大阪に戦没者の慰霊を恒久的にお祀り(奉齋)するお社がなかったため、支那事変を機に昭和15年(1940年)に創建されたようです。
大阪護国神社の桜
東京の靖国神社と同じく桜が美しいところなのですね。
ところで、靖國神社は危うくGHQの手によって、ドッグレース場にさせられそうになったことはご存知でしょうか? それを阻止したのはイタリア人のカトリック神父です。
「靖国神社焼き払い計画を止めさせたカトリック神父の言葉
1945年に日本を占領したGHQは、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父に意見を求めることになった。
ビッテル神父は、マ元帥配下の将校たちの単純な発想は、護国神社が全廃されればキリスト教会の発展は容易になるから、キリスト教会は喜ぶだろうという確信にあり、マ元帥とウイロビーはそれを逆用して、キリスト教会の答申によって決定するという条件を出したにちがいないと推察していた。
その線にそって、バーン師ほか数人の神父たちと意見を交わし、同意を求めた。出席者は少数だったが、みなそれまで各派の意見聴取をしており、結論はただちに出た。
自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは自然に理解できるはずである
もし靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、靖国神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。
靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。
ビッテル神父は約束通り翌日の午前十時までに、マ元帥覚え書に対する答申書をウイラー副官に渡した。
靖国神社の招魂祭は予定通り、十一月二十日に挙行され、天皇陛下は無事参拝を果たした。
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大阪護國神社にも靖國神社にも、身内が祀られていることを信教の自由を理由に、訴えでて裁判で負けた愚かしい人がいますが、神道はそもそも、他の宗教概念には当てはまりません。
宗教を形成するには大きく三要素があります。
教祖、経典、本尊。
神道はこの概念には当てはまりません。
また内外問わず、基本的誤解が多いのですが、靖國神社に戦没者のおみたまはお祀りしてありますが、具体的に何かたとえば位牌とか目に見える形で収められているわけではありません。
あるのは、霊璽つまりは戦没者名を記した名簿のごときもののみであり、つまりは捉えようのない魂(おみたま)なのです。分祀というも愚かで、形のないものをどうやって分けるのです?
もっとも大阪の護国神社には、形あるものとしては東郷平八郎元帥のご遺髪は収められているようですが。
つい最近も韓国では、明治天皇の「位牌」が納められている明治神宮に韓国人が参拝するのはけしからんという馬鹿げた記事が出たようですが、御祭神としてお祀りされているのは明治天皇のご遺徳という形無きものであり、ご位牌などありませんから・・・・。彼らには「依り代(よりしろ)という神道特有の考え方と感性が理解できないのでしょう。
いずれにしても、靖國神社、護国神社共に日本人の参拝を他国にとやかく言われる筋合いにはありません。いずれの国も、善悪は超えて戦没者を慰霊する場はあります。
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神道というのは宗教ではなく、日本と日本人の原初的・・・・カール・グスタフ・ユングのいうArchetypとしての精神性だ、というのがべべこの捉え方です。