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Channel: BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。
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「遣日使」日本教えられて来たほど中国に頼りっきりだったか? 12

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鑑真和上は日本への渡海を5回にわたり試みましたが、ことごとく失敗、6度目にしてやっと日本の土をその足で踏みしめることが出来たのですが、その時鑑真は南洋で得た病気のせいで盲(めし)いていました。

そこまでして日本へ渡ってきた鑑真の情熱のありかは、仏教の流布ということもあったででしょうが、日本の文化への憧憬もあったのではなかろうか、というのが「遣日使」を前提に置いた、今回の記事の「仮説」です。

仮説と言っても、根拠のないことではなく、仏教はすでに聖徳太子が国策として取り入れていたわけ。そして、神道と仏教両輪でそれなりに安定していたのです。そこへ幾多の危険を冒しつつ、目までつぶれての来日は、果たして仏教流布の目的だけだったでしょうか?

宗の文献にも、日本を讃える文言は記されていたので、彼らにとって日本は文化果つる国ではなく、憧れの国でもあったのではないでしょうか。

この部分を、日本の教育は教えません。教科書にも書いていません。
ちなみに、今まっとうな教科書は育鵬社と自由社です。
「自由を育てる」良い教科書、と憶えてくださいね。

思えば、庶民までもが「万葉集」に見る如く詩歌を自在に詠む教養度の国、それが日本でした。文化だけではなく、金や銀の精製技術をさえ日本は有していたようです。

そういう憧れの国へ、遣日使たちは書物他の献上品を持って来日、日本は絹や綿の織物をお返しに上げていたようです。

なので、当時の日中関係は私達が教科書で教わるごとく、中国からもらう一方の関係ではなく、対等のものであった・・・・と解ります。

驚くべきことに、遣隋使、遣唐使の人や船の数より遣日使の数が上回っているのです!それらの人々の多くが、鑑真はじめ帰化する道を選び、当時の奈良の人口の三分の一は帰化人だったと言われています。

遣唐使や遣隋使として中国に行った日本人たちが、あちらで帰化して住み着いたという話はあまり聞きません・・・・。

日本には中国以外にも、インド、ベトナム、新羅、渤海からも押し寄せて来ていました。小野妹子が日本に帰国する際には、32隻もの大船団がぞろぞろ着いてきたそうで、いかに日本が好まれ、憧憬の的であったかが、解りますね。

9~17世紀の日本では、遣唐使より遣日使のほうが多かったのです。

 

こういうことが、全く教えられません。

日本の教科書における定型記述はこうです。

「飛鳥時代から平安時代にかけ遣隋使、遣唐使の派遣目的は隋や唐から先進文化を取り入れるためであり、607年の遣隋使から894年の最後の遣唐使まで13回(17回のうち4回は失敗)、命を賭してまで唐に渡ったのは、ひとえに日本が先進国唐と隋とに追いつこうという動機からである」

端的に、嘘ですね。

田中英道先生の言葉を拝借して論破とします。

  

 

「これは日本の歴史において、常に外国から学び、模倣することから日本

文化が形成されている、という歴史家、評論家の固定観念が、日本の世界

における文明的な位置づけを怠らせ、その意義の検討を遅らせてきたので

ある。遣唐使という言葉はあるが、遣日使という言葉がないこともその証

拠である」

 

日本側の史書を見るだけでも遣唐使の何倍もの遣日使が来てい

る事実を見逃してきたと指摘。

 

そもそも、最初の遣隋使を派遣するに当たり、聖徳太子が小野妹子に持たせた国書のあの有名な文言「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」を見れば当時の、力関係は容易に知れるのに、私たちは教育的洗脳のベールを自ら目にかけてしまい、真実を見ません。

 

太子の書を不快に思った煬帝は、この遣隋使への返礼として大使裴世高を小野妹子に同行させ、隋の冊封体制に入れと宣撫しようと試みたのですが、日本ははねつけています。

 

これ以降、日本は常に中国とは対等でした。

 

 

 『日本書紀』に述べていわく、

 

「舒明天皇の2年(603年)8月、 犬上君三田耜が第1回遣唐使として入唐

すると、同4年(632年?)秋8月、唐は高表仁を遣日使として送ってき

た。 学問僧(3人)を伴っており、新羅の遣使らも従っていた。彼らは唐

からの国家として使節団であったのだ。

 

こうした唐からの遣唐使の来日は頻繁に行なわれ、とくに天智天皇の治世

には、毎年のようにやって来た。その規模も大きくなり、8年(669年)に

は2000余人、10年(671年)には2000人と沢山の船と唐人が来朝している

ことが記録されている」

 

あまり多くの船に押し寄せられ、防人達は侵すわ略軍かと弓を射た、と

『日本書紀』にあります。当時の日本の総人口は一千万人弱。そこへ二千人の中国人が押し寄せたとあれば、人口比で2万人という大量が当時の感覚だったでしょう。

文字通り、中国からは我も我もと日本文化や物資に憧れて中国人たちが殺到していたのでした。

 

 

 

渤海は720年から922年までに、33回、遣日使を送ってきています。

これに対して日本からの遣渤海使は13回に過ぎず、半分にも満ちません。

 

 

またこれも、忘れてはならないことですが日本と唐は対等でしたが、新羅に対しては日本は宗主国でした。

 

韓国は長く奴隷として扱われてきた中国を宗主国として仰ぎ、自らは日本の兄と称し格付けに躍起ですが、滑稽というしかありませんね。

 

韓国は奴隷であっても、日中の関係は対等ないしは「時に上」でした。

 


 

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