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Channel: BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。
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日本人であるということ

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旧稿を推敲してのリニューアル版です。
好評を頂いた「四十八茶百鼠」を対を成す記事として記しました。


日本人とは何か?

言葉の狭義の意味では「純日本人」というのは存在しない。
列島が地形学的に形成されてからこのかた、ネイティブに少数住み着いていた人々の他には南方を含めて海の向こうから渡来してきた多種(というほど多くはないが)民族により形成されているのが現在の日本人でしょう。

ただ・・・日本という国の特殊性は地理的なものに負うものが大きく、
四方を海の要塞に守られてきました。この特有の安全空間が、しだいに
世界でも類を見ない精神性と文化を育んでゆきます。

気候の温暖なこと、四季があること。これらが日本人の穏やかで繊細な感性を
培ってきたことは勿論です。水に恵まれ、土地は肥え、耕せば作物は実り、
川と海には魚介と海藻。食うには困らず、動物をむやみに殺戮する必要も
なかったことから、温和な民族となってその精神性を育て精神は文化を生み出します。
気候温順だからこそ、自然と闘うという発想ではなくむしろ仲良く共存の道を選びます。
他者と争わずとも食べていける状況はその心に住まい始めた神々も温和で寛容です。

戦わなくては食えぬ、水さえ闘いの果てに手に入れねばならぬ、
穀物が実らぬゆえに動物たちは殺す、そんな砂漠に誕生した荒ぶる神とは
一線を画します。

日本という水も土も潤沢な地域に集った人々は、四方を潮の要塞に護られながら、それなりの民族性を形成してゆき、やがて似通うメンタリティを共有するようになり、すべては一種の家族である感覚が生まれます。そしてしだいに単一民族としての形を整えていきます。
家族としての単一性は、他者を受け入れるに寛容でもあれば、
また異種に対して排他的でもあります。

排他性には功罪が伴います。
よき側面は、自ら培ってきた文化を護るに敏感な面がある。
反面、貪欲に他者の文化圏にまで侵蝕してゆく逞しさに欠ける。
多種文化共存というごとき混沌には耐えられない。

排他性もしかしながら頑なではない、必要とあらばいつしか我が懐に取り込み
相抱擁して自分流に血肉化できるのも日本人の特性です。

朝鮮半島や中国大陸からの渡来人は、異種ではありましたが
自然に日本という家族のいわば家風に馴染み溶けこんでゆき、
彼らもまた家族として遇されるようになります。
いつしか彼らが他人であったことすら忘れ去られ、(ある時代までの)彼らも
単一民族の一員として溶けこんで現在に至ります。

「日本家族」内における家長としての天皇もまた自然発生に近いものでは
なかったでしょうか。自然と不即不離で生きてきた民族は、
天照大御神(太陽)という自然神の最たる存在に直結し、祭祀を執り行う存在を
やがて神の位置にいつしか据えて、それはおそらく本能的にこの半ば自然発生し、醸成された特有の単一民族の絆を永久に持ち続ける結び目が必要だったのでしょう。

絆の結び目としての天皇。

腹の底から崇める人、国家の結び目としての役割で尊重する人、
さまざまでありましょうが、天皇家への敬意は程度と質の差こそあれ
日本国民であるならば必須でしょう。
日の丸も国歌もこれに準じます。ひれ伏す必要はないが、国の象徴を尊重することは国家とその民との最重要契約事項の一つです。
強制と取るのは幼く浅慮です。契約(約束事)のない国家は存在しません、
世界のどこにも。

国家否定論、国境不要論があることは理解しています。
人類究極の理想です。
しかしながら、その論が有効であるのは、世界のありとあらゆる国が
足並みを揃えてその理想を掲げるときであり、この現況下、それを
論じるのは現実知らずの未成熟な思想でしょう。

天皇という存在はアマテラスの(精神的)血脈で
あることを仮想し、それに相応しい敬意を払うべき対象であり
また天皇ご自身も、それに応えるべく全霊で神たる存在に
近づく(畏れながら)責務を負いましょう。

崇高な非人間に無限に近づく。その努力の過程が代々の天皇というものではなかったか、とこれはきれい過ぎる言い方かもしれませんが。

しかしながら過酷な宿命を担う存在であるがゆえに崇められる、という側面はありそうです。
人間天皇という言い方は、GHQに押し付けられたまやかしです。

日本人の霊的システムとして人間では機能しません。

これらの構図を神聖なるフィクションとして捉えるか、万世一系の
実在として捉えるか、そこはファジーでよいと思います。

天皇と民との間柄は契約、日本人として在るための約束事。
出来る限りの敬意を払おうよ、という約束さえ守られれば国体は護持できます。

しかしながら、かくのごとき構造も、じわじわと壊されて行きつつあるのが
現状です。巧みな包囲網にどうやら取り囲まれている。
なぜ反日勢の包囲網に取り囲まれるのか。天皇が核だからです、この日本の。
そしてその核が、自壊しつつある恐れを、近年感じています。



多くの日本人が中国や韓国他からの侵入を嫌うのは、懐が狭いゆえではなく、家族としての家風と家訓を身につけぬまま、しかるべき挨拶もなしに土足で上がりこんで来るからでしょう。
嘘をついてまで身を守る必要のなかった温和な国だから、虚偽や奸計を厭います。
穏やかな土壌で自然に生まれてきた規律は、「義」を尊びます。
義には恩が寄り添い、恩義となり、義理が生まれます。
「思いやる」という特有のゆとりも生じます。

現在、ほぼ単一民族としての私たちが著しい抵抗感と嫌悪感を中韓に抱くのは、狭量のためではない、彼らの恩も義も知らぬげな我(が)の勝った
価値観に信頼を置けぬこと、馴染めぬこと、日本という“大家族文化”に敬意のないことからでしょう。

罪穢れという神道に基づく清潔感を本来の日本人は有します。
根底に清浄を好み「禊」の感覚を有し、「お天道様が見ている」という倫理観を
持っています。天道に背けば恥となる。

戦後吉田茂が本国へ大量送還することをGHQに願い出たのは朝鮮人に対してであり、台湾人には言及しませんでした。なぜなら彼らは盗まず暴力をふるわず嘘をつかなかったからです。日本という家族文化に溶け込める人たちであったから。敬意を払ってくれる人たちであったから。

私たちの危機感は、現在おそらく二種類で、国土を物理的に盗られることへの
恐れの他に、長く育んできた文化と倫理観が壊されることへのプロテストと
怒りがあるように思います。
文化も倫理観も、おそらく大方の日本人が漠然とながら感じているように、
実は大変優れた深みを備えており、古来の日本の精神性にこそ世界が
今後よりよく生き延びていくための規範がどうやら潜んでいそうです。
その貴重感と役目をぼんやりとながら自覚し始めている・・・。人々がいそうな気がします。


自然との共存、無益な殺生は慎む、和をもって尊しとなす。
いまどき声高に叫ばれるエコなど日本人が本来は先駆者で、江戸の民は教えられなくても髪の毛一本、紙くずに至るまで再利用、再生の達人でした。
主語が曖昧なというより敢えて消し去る文脈をその思考の根底に持つ。
あなたと私という境界線に、敢えてファジーな玉虫色の領域を残す。
「相身互い」という言葉が生まれる。
自然とも相身互いでいたわり合い敬うのが日本人です。
生と死との境界線すら西欧ほど定かではありません。
この世にあるものとあの世に魂を移したものには架け橋があります。

使った包丁さえ縫い針さえ、飾った人形さえ供養する日本人には、もともと
「彼我」の感覚は希薄なのです。包丁さえ我が身の一部という感覚を
本然的に持つ。生き物、物体全てに魂が宿ると観ずる感性。
戦で使役した軍馬や軍犬、伝書鳩にまで心を寄せて、末永く供養する
優しさ。

黒白(こくびゃく)を明確につける思想は反自然でもあれば未熟でもあります。
自然は常に、刻々流動変化して一つの定見、価値観には留まりません。

俳句に見られる極端な短詩には余白があり、余白は宇宙につながります。
盆栽の極小化された自然に実は大自然が含まれる。
ちぢみ文化というごときことが言われたことがありますが
誤解です。余白に森羅万象を忍ばせる感性を持った日本人には
大きいことは必ずしも善ではなく野暮ですらあります。

障子という単なる紙で外界との隔てとした日本人は
その障子一枚を開け放てば、我が庭のみならず遠く連山まで
「借景」として取り入れられることを知っています。
身を縮めて大を知る民族です。ミクロにマクロが潜むことなど
本能的に知っていました。

抑えた色目に華やぎが潜む、洗練されつくした美意識をも持ちます。
墨絵から色とりどりの色彩を彷彿させる感性も。
表向きは地味な紬の羽織りの裏地に、連獅子を躍動させてみたりする。
一転、放恣なまでの色彩の奔流が歌舞伎の世界。あと一歩
踏み込めば下品になるぎりぎりの臨界点で、くっと抑えて品格。

一筆、墨で丸を描けば、そこに境地と宇宙がある。

私たちは、分厚いバイブルもコーランも必要とはしません。
あれをしてはならぬ、これは食するな、と命令形で
抑えこまねばならぬほど放埒な民ではありませんでした。
内に神という名の規律を誰もが持つ。

一歩踏み出したときに眼に入る自然の全てが経典です。
陽に神の姿を視、月に神の囁きを聴きとります。
示唆と陰影に富む自然に恵まれた、いわば神に
愛された民族でもあります。

武道においてすら相手を殺傷することが本分ではないのだという驚くべき精神性の高さ。

日本人であるということは、国籍を有しているという物理的な要件の
他に、いえそれ以上に神道(的思想)をベースに脈々と培われてきた日本古来の精神、やまとごころを血肉に持つということではないでしょうか。
多文化共生という美名のもとの侵略行為への日本人の嫌悪感を
生理的に述べるなら、神社の白木をペンキで塗り立てられ
キンキラキンに飾り立てられることへの嫌悪感ではないでしょうか。
よく言えば若い、未成熟の粗雑な感性に席捲されることを
誇りが許しません。

札束持って押し寄せる輩に、心まで売り渡してはなりません。
彼らが個々落とす金額を遙かに上回るお金を日本国はかの国に
恵んで差し上げています。

単一民族としての旗印は精神性(やまとごころ)です。
精神性を他者に押し付けることはしません。相手との差異を認めながら
毅然と日本人であればよい。大和の民の誇りを胸に秘めてあればよい。
そして日本人としての気概は常に見せておかねばなりません。蛮族の手段は常に虚偽と不義からなる言葉と暴力だから。


私たちは改めて日本人としての自覚を持ち、日本人であることを改めて選択する、そんな時期にさしかかっているのかもしれません。


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