週刊誌報道が全て事実であるということではありません。ただ折々に問題意識を持って取り上げられた事象を辿ることで見えてくるものもありそうな。
週刊文春、平成5年4月15日号「吹上新御所建設ではらした美智子皇后『積年の思い』」
週刊文春、平成5年6月10日号「宮内庁に敢えて問う 皇太子御成婚『君が代』は何故消えたのか」
BB注:この記事と関係あるかどうか不明ですが、皇后陛下が時として君が代と万歳三唱に対してご不興の表情を浮かべられるのは映像が捉えています。
週刊文春、平成5年6月17日号「宮内庁記者が絶対書けない平成皇室『女の闘い』」
宝島30、8月号「皇室の危機『菊のカーテン』の内側からの証言」
週刊文春、平成5年7月22日号「『宝島30』の問題手記『皇室の危機』で
宮内庁職員が初めて明かした皇室の『嘆かわしい状況』」
週刊新潮、平成5年7月22日号「美智子皇后を『女帝』と告発した宮内庁職員」
BB:内容は知らぬながら部外者の拙ブロガーごときでも、女帝ぶりが透けてみる昨今ではあります。現在、皇居内ヒェラルキーの頂点に君臨なさっているのは、皇后陛下です。皇室としては病んでいます。保守を任じる人たちがこの病みようや、女性天皇擁立の動きに対して、ひたすら見ないふり聞こえないふりは、怯懦でもあれば、愚かしくもあるでしょう。
週刊新潮、平成5年9月9日号「天皇訪欧費用『2億円』の中身」
週刊文春、平成5年9月16日号「美智子皇后が訪欧直前の記者会見で『ムッ』としたある質問」
BB;皇后陛下の生い育った環境カトリックと、バチカン訪問との関連性といういたって、必然的質問に頑ななまでに答えることを拒否した皇后。つまり、指摘された質問が図星だったのです。フルムーン旅行と揶揄された中身皆無の旅行の目的はローマ法王への謁見であり、しかも実際は法王の保養先への非常識な押しかけでした。当時の2億円は相当の金額、そこに皇后陛下の衣装が3500万円。
週刊文春、平成5年9月23日号「美智子皇后のご希望で昭和天皇の愛した皇居自然林が丸坊主」
▼以上の記事の内容は以下。
■ 美智子皇后のご希望で、昭和天皇が愛した自然林が丸坊主 週刊文春/H5年9,23号
「 新御所の建設が決まったのは、昭和天皇がお亡くなりになって半年も経たないうちのこと。 あまりにも亡きお上をないがしろにした決定です。
最近の皇室をみていると昭和天皇の威風が次々に壊されていく、
そんな気がしますが、その始まりがあの新御所でした」 (皇室に近い関係者)
『 応接 』 部分には映写室やステージ、音響設備を備えた約八十畳の大広間があり ここは晩餐会や映画会、コンサートも開ける多目的ホールになっている。
また、『 迎賓 』 部分には来客用の寝室、浴室などの宿泊施設も作られている。
この新御所については、元侍従の浜尾実氏はこう語る。
「 国賓に泊ってもらう施設としては立派な迎賓館がある。おもてなしの場所だって 皇居内に宮殿があるわけですから、新御所に宮殿や迎賓館の機能まで持たせる必要はない。 質素が皇室の伝統的な美徳という事から考えると、少し贅沢にすぎると思いますね」
実際、前出の皇室に近い関係者などは
「吹上の自然林を丸坊主にしたのは美智子皇后!」 とまで厳しい指摘をする。
「 大体、皇后は吹上御所にお移りになりたくなかった。
皇太后さまの匂いのする御所は嫌だということからあの新御所の建設が決まったんですよ。
たしかに、皇太后が美智子皇后に冷たかったのは事実。だからと言って昭和天皇が ご愛好だった自然林まで伐採しそこに贅沢な御所を建設するというのはあまりのことです。
そもそも皇太子妃時代の皇后に皇室内でもっとも理解があったのは昭和天皇。 それを考えればあの自然林伐採はとんでもないことです」
「最近の美智子皇后への苦言は以前の美智子妃いじめとはまったく違うもの。
最近の特徴は、むしろ皇太子妃時代の皇后に好意的だった人からの批判や苦言の声が多い。
皇后や宮内庁はその点に留意されるべきではないでしょうか。
率直に言って、今、皇室は『危機』の時代です。」(同宮内庁記者)
超豪華な吹上御所の建設、そのために壊された皇居の自然林。
『 まるでフルムーン旅行』 といった陰口まで飛び出す外国訪問の旅…。
質素を旨とされた亡き昭和天皇は、そんな、平成皇室をどうご覧になっておられるのか?
・・・・・・記事内容ここまで
週刊文春、平成5年9月30日号「宮内庁VS防衛庁に発展か 天皇・皇后両陛下は『自衛官の制服』お嫌い」
BB:これも記事内容は解らぬながら、両陛下がこぞって平和憲法護持派九条堅持のお立場なので、「無くもない話」であるというのが、本質的な問題でしょう。
週刊文春、平成5年10月7日号「美智子皇后 私はこう考える」
■浜尾実氏の苦言『新天皇陛下、災害現場へもお飛びください』 関連/女性自身 2007.05.08号
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1292996215/150
BB:浜尾氏の提言はいたって、まともです。しかしそれを疎まれたのが皇后陛下であり、浜尾氏は皇居から閉めだされ、葬儀にも来てもらえませんでした。災害現場に行こうとされなかった昔を思えば、鬼怒川氾濫の翌日に絵画展にニコニコと行かれたことは、驚くにあたらず、要するに訪れて深々とお辞儀を(皇后はコンスで)なさるだけの、莫大な費用をかけてのご慈愛プロモーションビデオ製作、と国民は見抜き始めています。東宮夫妻の被災地と被災民をないがしろにする、ルーツは実は両陛下にあった、という残念な現実。
■皇位継承関連
別冊宝島1752 誰も書けなかった日本のタブー
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1292996215/141-145
関連資料
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1292996215/41,116,204,206
■正田家と美智子様との密着資料
「母・富美子さんと密会のとき」/文藝春秋2010年5月特別号
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1292996215/2-3
美智子様が正田家と交流している様子
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1292996215/18,63,65,81,86,107,210
雅子妃と小和田家の節操のない密着度が批判される時、決まって「正田家の節度」が賞賛されましたが、何の事はない、頭の悪い雅子妃と違って、繕(つくろ)い方がお上手だっただけで、ここでも結局入内しても実家とべったりは、皇后発出会ったというお粗末。
■美智子様と左翼の親密度
鶴見和子の会にお忍び出席する皇后
某ブログより 和子=鶴見和子(元・共産党員)
>和子さまの三回忌に、美智子妃殿下の御臨席をいただき、
>内山さんが宮中に御礼の記帳に行く予定の所、
>皇后様から「鶴見和子病床日記」持参で参内するようにとの連絡があり、
>宮中大変奥深くのお部屋で、一対一の四〇分の御下問で、緊張のし続けでした。との事でした、
ttp://www.php.co.jp/magazine/voice/?unique_issue_id=12369
(Voice 2008年9月号)
“爽やか”だった大東亜戦争
上坂冬子〈対談〉鶴見俊輔 158p
> 美智子皇后は姉の和子に対して、彼女の学友だった女官を通して
> 「宮中まで来てほしい」とお呼びになったことがありました。
> そのとき、「あなたがこのあいだの講演で 慰 安 婦 の問題を取り上げてくださって、
> と て も あ り が た か っ た」とおっしゃった。(略)
上坂冬子の対談相手、鶴見俊輔は皇后のシンパ鶴見和子の兄であり、市民運動組織「ベ平連」メンバーで、終始共産党支持。
九条の会の左翼音楽家・三善晃氏に熱心に肩入れ、そして「日本も難民を引き受けるべき」などと、日本がすでに数十万人の朝鮮人難民を抱えてあえいでいるのも知らぬげに反日国連をバックに、押し付けてくる緒方貞子も皇后の左翼お仲間で、女帝擁立肯定の皇室典範変更のための有識者会議には、皇后がこの人を押し込んでいます。
森村桂の軽井沢の家では社会党・党員と交流も。
緒方貞子らの出した報告書の主な内容
女性天皇及び女系天皇を認める。 皇位継承順位は、男女を問わず第1子を優先とする。 女性天皇及び女性の皇族の配偶者も皇族とする(女性宮家の設立を認める)。 永世皇族制を維持する。 女性天皇の配偶者の敬称は、「陛下」などとする。なお、女性天皇の配偶者の具体的な呼称については触れられていない。 内親王の自由意志による皇籍離脱は認めない。
この時点で皇后陛下の脳裏には、溺愛する徳仁皇太子の長子、愛子様天皇の図柄が明確に描かれていて、何事によらず皇后の意志尊重の天皇陛下もそうであったでしょう。
それ故、悠仁さまのお誕生は両陛下にとっては喜び以前に困惑ではなかったでしょうか。
GHQの元メンバー、ベアテ・ゴードンを左翼と認定するには無理があるかもしれませんが、皇室の伝統を壊すには十分の男女同権主義のフェミニストで、フェミと左翼は抜き難く結びついています。
小和田恒氏の、国賊ともいうべき自虐左翼史観を承知でその娘を入内させ得たことが不可解でしたが、結局皇后陛下がカトリック左翼とでも言うべき感性のお方で、実は小和田家の娘は意外な高得点であったのではないでしょうか、皇后にとっては。
小和田恒氏の東京裁判史観、GHQ憲法の尊重、神道への軽侮は、本来皇室とは不協和音のはずなのに、存外両陛下なかんずく皇后陛下とは親和力があったのかもしれません。
皇太子と雅子妃の操り人 小和田恒氏の凄まじい売国 【拡散自由】
天皇陛下はその少年時代に、したたかGHQから刷り込まれてお育ちです、残酷なまでの恫喝と共に。(恫喝はA級戦犯の処刑が皇太子時代の今上の誕生日に、時計の針が触れた途端始まったこと、他です)
多感な時期、それも日本がアメリカに打ちひしがれていた時期に、ジミーとよばれながら育った少年の思考が、GHQの思惑通り歪みを来し、それが送り込まれた皇后のカトリック的世界観と共鳴し合い、現在お二人で独特の左翼史観を形成なさっているようにお見受けします。
皇后陛下にとって、東京裁判自虐史観に立つ小和田家の娘は、むしろ歓迎すべき相手であったのかもしれません。自分の実家より格高く、自らより知性の勝った久邇顕子様をお避けになられました。
久邇顕子様=旧皇族の家に生まれる。父の転勤に伴い、幼少時より南米、北欧、オーストラリア、イギリスなどで暮らし、現地校に通う。学習院大学大学院、オックスフォード大学で哲学を学ぶ。東京大学医学部医学科卒。精神科医。
久邇顕子様は工作伴わぬ純無垢の学歴。経歴からして国際感覚抜群。オックスフォードを出られ、こちらは東大をきちんと、それも医学部をご卒業。哲学と医学と、兼ね備えた精神科医。雅子様が英語もおぼつかぬまま東大“体験”入学1年間、オックスフォードでは単位取れず国費を溝に捨て帰国、現在精神病であるのと、えらい違いです。こういう宝石を捨て去って、石ころを拾われた皇后陛下と皇太子。
沿道でお出迎えの国民に、何が気に食わなかったのか、あっかんべー。(悪霊も写り込んでます)長野県行啓の小布施町散策の車内にて。
これで「人格否定」と言われても、尊重するに値する人格がおありでしょうか。
人格否定発言を訝しく思った秋篠宮殿下が、皇太子殿下に伺うと、要するに年中人の目に囲まれて窮屈、自由に遊びに出られない、というごときことだったそうです。海外に好き放題に出られないというのもあったのでしょうか。
JTBやH.I.Sではなく、専用機一機飛ばしお付きから護衛から莫大な国費が飛ぶお立場に自分がなられたご自覚もなかったようです。
大変ズケズケと言わせていただきますが、おそろしく頭の悪いお方ではないでしょうか。英語は断片を拝聴したことがございますが、あれでハーバードの講義は無理。会見時のお言葉の拙さは、皇太子とおつかつです。
雅子妃の(´・ω・`)なご発言臭集
・ω・1987年12月、追っかけマスコミカメラマンを指差し恫喝して、「どこの社なの?名刺を出しなさい!」
・ω・伝蓋友人らによる送別会で「最近母から気が緩んでいると注意されました。イギリスに行ってからは、フンドシを締め直して勉強したいと思います。」
・ω・水俣病とチッソ社長であった雅子母方祖父・江頭豊について、世論が触れると「おじいちゃんが悪く言われた」
・ω・結婚前、駅ホームで撮影したカメラマンを追いかけ胸ぐらを掴んで「フィルムを出してください!」
・ω・外務省北米二課の同僚・上田奈生子さんに向かって「ネズミに似てる」、上田さんが髪を切ってきたら今度は「うちのショコラに似てる」
・ω・婚約会見で「『雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうにおっしゃってくださいました」とバラす。
・ω・結婚当初、伊勢神宮に参拝に行ったとき、皇太子と雅子は車から別々のドアから降り、歩き出して、皇太子の脚を蹴っ飛ばす。その後、笑いながら、『あっ!ゴメン!』
・ω・1995年天皇陛下が東宮夫妻に「国民もみな(世継誕生を)待っているよ」と話しかけられた途端、「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません!」
・ω・オーストラリアの病院視察公務で歩行器姿の少年に向かって、持参したエルメス写真ケース入りの手押し車愛子写真を示し「Like you!」
・ω・結婚10周年に際しての文書回答にて「皇太子様のおみ足をお引っ張り申し上げないよう」←考え推敲する時間のある、文書回答でこのレベル。
・ω・ヘイリーコンサートを鑑賞、舞台裏で歓談し予定時間オーバー、サインをねだり
「Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!」←このレベルで、ハーバード実力入学と卒業?
・ω・天皇陛下お誕生日祝いの夕食会にて、愛子さまおむずかりで東宮御所に帰還、陛下を2時間47分も待たせ、心配して出迎えに現れた皇后陛下、紀宮殿下、紀子妃殿下がたに一言。「どうもぉ」。
テレビの画像をそのまま連続で写しただけで、細工はありません。
婚約会見の時からもう論外でしょう。憑き物が浮かび上がった瞬間がありますね?(霊感のある方) 目を見つめているとこわいです。
被害者ぶりながら公務の演壇で居眠りする神経のぶっとさ。義務感のゆるさ、何たる不作嫁。あり得ないでしょ、公務の最中にこんな顔を撮られるなんて。
所詮、指さし恫喝の下品なねーちゃん。カメラマンの胸ぐらを掴んで揺さぶり、カメラマンに「おそろしかった」と言わせた、柄の悪いねーちゃん。この方に対し妃殿下の、まして「不敬」のと、片腹痛し。不敬なのは、下賤の身で入内したこの方であり、自虐史観反日左翼思想の家なのに、入内させた小和田の両親でしょう。
小和田恒氏の師匠は皇室不要論者の横田喜三郎氏です。
小和田恒氏自身が皇室崇敬者ではなく、この方にとっては日本の迷信の上に成り立った名声と冨のある一家でしかないでしょう。神事など、因習としか捉えていず、雅子妃の神域へのないがしろの仕方は、父親譲りでしょう。
こういう妙な言い方ですが、神に対してセンスのかけらもない娘を入れるべきではないし、最も大事な審査ポイントなのに皇后陛下も皇太子も、そこには全く無頓着、ということはお二人共に実は神事に、本来の意味を見出せないでいる・・・・というより、神道における日本の神の存在など信じてもいないのでしょう。
神事解らず、男子一系の意義解らずでは、結局皇后陛下は何十年と皇室にいて、皇室の何たるかの基礎をご存じないままという凄まじさであり、それは雅子妃と相似形の姿、美智子様の劣化相似形が雅子様でしょう。
以下の時系列は、後の調べや読者さまからのご指摘や情報提供を入れつつ、推敲して行きたいと思っていますが、拙ブログもいつクローズかあるいは開店休業か解らないので、皆さま主体的に考えて頂きたいと願っています。
時系列
1 皇太子の皇室会議落選事件
1985年(昭和60年)9月29日 入江侍従長逝去
1989年(昭和64年)1月7日:昭和天皇崩御
1989年1月7日: 今上天皇ご即位(正議員第2位を予備議員第1位の常陸宮殿下ご継承)
1991年9月5日: 皇太子予備議員(第2位)
1995年9月6日: 皇太子予備議員(第2位)
1999年9月6日: 皇太子予備議員(第1位)
2003年1月1日:新年祝賀の儀 皇后、皇太子妃共第一ティアラ
2003年9月5日:皇室会議皇太子落選(~本年2015年まで)
皇太子に皇室に背く何か、不祥事があったか?
2003年12月12日:皇太子妃静養発表
2004年3月25日:皇太子妃軽井沢籠城
2004年4月26日:皇太子妃軽井沢から帰京
2004年5月10日:皇太子欧州歴訪前の人格否定発言
2 2008年ヤフーオークション事件
2008年1月25日:東宮夫妻長野県行啓の小布施町散策の車内にて雅子妃、沿道の市民に向けてアッカンベー
2008年2月4日:東宮夫妻、東京国立博物館「宮廷のみやび─近衛家1000年の名宝」鑑賞
2008年2月14日:二度目の宮廷のみやび─近衛家1000年の名宝」再び鑑賞
*異例の2度にわたる名宝展鑑賞は、一度目の鑑賞の時ヤフオクで売りに出されたはずのものが展示されているので、愕然として再チェックに行ったのではないかとの風説あり。初期段階で宮内庁が急遽買い取った形跡あり。
*この頃からボンボニエールが多数出品されるようになる。
2008年9月15日:リーマンショック
2008年10月4日:仙壺堂(骨董品屋)が皇女の御召し物を写真撮影しブログに載せる。
2008年平成20年10月6日(月) 皇太子殿下 東宮仮御所御発
2008年10月9日ー22日:皇女の御召し物の購入者を募る
2008年10月12日:kikueisya2008がヤフーオークションに出品開始
*kikuei= 菊栄親睦会(きくえいしんぼくかい)は、皇族と旧皇族(旧宮家)による親交団体。このような一般にはさして流布されていない名称を出品者として使用していることに留意。
2008年10月30日:「ヤフオク流出事件」発覚 topukapu9den(トプカプ宮殿)とkikueisya2008(菊栄)の2者。しかし両者同一人であった。
2008年10月31日;トプカプ 宮殿騒動ことヤフオク祭りが発生した翌日、池田礼子宅訪問し「親族が集まる」。この時期、小和田夫妻も日本にいた。
2008年平成20年11月5日(水)皇太子殿下 ご視察(京都御所・宮内庁京都事務所(京都市)
2008年11月20日: 雅子妃、日本PTA50周年記念式典にドタ出。
2008年11月29日: 新浜鴨場で菊栄親睦会を開く。
2008年11月29日:夕刻、愛子さん誕生日行事中止を発表 発熱が理由。
2008年12月1日 : 愛子さん誕生日報道が、悠仁さま中心の内容になった。2008年12月1日 : 紀子さま特集掲載の「家庭画報2009年1月号」発売。2008年12月3日: 天皇陛下、2週間前(10月18日前後)から体調不良、不整脈で2日間の公務とりやめ (宮内庁発表)
2008年12月8日:雅子妃、風邪発熱で9日誕生日祝賀行事中止。
2008年12月9日 :医務主管が天皇陛下の病状会見「内臓から出血・陛下はご心労とご心痛にずっと耐えていらっしゃる」
2008年12月11日:天皇陛下の不調に対して羽毛田信吾長官会見。「将来にわたる皇統の問題と、雅子妃の適応障害の原因を皇室そのものとする報道が両陛下を深く傷つけた」先月から肉体的・精神的なストレスが 原因の胃炎や十二指腸炎と。
2008年12月23日: 天皇誕生日 体調を鑑み、記者会見中止し文章発表に。2009年平成21年11月8日(日):皇太子殿下 ご視察(京都御所・宮内庁京都事務所(京都市)
2010年5月:カンボジアの国王来日の際、晩餐会の参列者として皇后が雅子妃を指して「あの方はもうよろしいのではないかしら」と言われたという一件。
2010年平成22年10月26日;(火) 皇太子ご視察(京都御所・宮内庁京都事務所(京都市)
2011年平成22年10月25日:(月) 皇太子ご視察(京都御所・宮内庁京都事務所(京都市)
2012年1月23日:旧皇族の一部の協議が行われ、いざとなったら男系を守るために一族から皇族復帰者を用意する必要があると意見が一致。
2012年10月:ブータン国王晩餐会の準備中、雅子妃を最初から外していた、とする記事が後に週刊新潮に載る。宮内庁は内容を否定。ブータン国王夫妻には、雅子妃は晩餐会どころか、一度もお会いになってはいない。
2012年平成23年10月30日:(日)皇太子殿下 ご視察(京都御所(京都市)2013年平成24年11月9日(金):皇太子殿下 ご視察((京都御所(京都市)
*鞄の中身は文鎮ではないか、との風説あり。
2014年平成25年度 お出かけ予定だったのが、台風で中止。
備考
2008年 秋 小和田恒、順天堂大学病院に入院。
>2008年12月23日 天皇誕生日 体調を鑑み、記者会見中止し文章発表に。
「私も,皇后も,将来重い立場に立つ皇太子,皇太子妃の健康を願いつつ,二人の力になっていきたいと願っています」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokanso-h20e.html
メディアの扱いが、秋篠宮家に一瞬移ったのに、天皇陛下のこのお言葉で再び逆転。皇后陛下の強い憤りとねじ込みがあったか?
参考資料:
ヤフオク事件発覚後の「菊栄親睦会」(皇族、旧皇族の親睦会)は異例の鴨場での開催。(ヤフオクの出品者名はkikueikaiと菊栄の名が織り込まれていたが、一般人は案外知らない名前であるかもしれない。ので、皇室周辺の者が出品したのではないか、と)
交通規制など近隣住民に知らされず、当初開催は伏せられて行われたようで、数多の皇族が通過することに驚き喜ぶ住民のtwitterあり。
ちなみに、
>ヤフオク事件発覚後の「菊栄親睦会」(皇族、旧皇族の親睦会)は異例の鴨場での開催。
>「ヤフオク流出事件」発覚 topukapu9den(トプカプ宮殿)と【kikueisya2008(菊栄)】の2者。しかし両者同一人であった。
一般に菊栄ってさほど知られた名称ではないような?出品はやはり皇室関係の者か?
それと、
東宮が売り払ったはずの品が展示されていて東宮夫婦が驚愕した。展示品チェックのため、もう一度行った。というリークか?ガセか?が判明せぬ噂があり。拙ブログ主の、相当確実な情報ラインから、出品物は急遽宮内庁が買い取った、と聞き及んでいる。
となると・・・・売り払ったものが、展示されていて驚愕はありかもしれない。(あくまでも仮説)
魚拓:両陛下、元皇族らとカモ猟 NIKKEI NET
LOST and FOUND 新浜鴨場で開かれた菊栄親睦会とキャンセルされた愛子さまのお誕生日行事との関連性
ttp://blog.livedoor.jp/fanny_valentine/archives/51150785.html
「しかし、十二月一日の愛子さんの誕生日映像の半分以上の時間を悠仁親王殿下のご成長ぶりに裂き、今年の夏、葉山の海で陛下自ら和船の舵を取り紀子さまと悠ちゃんを同乗したご様子を詳しく説明し報道したのです。」
加え、悠ちゃん殿下の映像は続き、高島屋で開かれた「皇后さまと子どもたち」に紀子様と二人のお姉さまである眞子さま、佳子さまと訪れた時の映像は音声を引っ張りだして放映、そして宮内庁提供による30日の秋篠宮さま誕生日の映像も一緒に紹介された。」
「それは宮内庁広報が紀子さまを前面に押し出し、家庭画報の取材に応じたことにも表れている。」
2009年1月号 新年特別企画 秋篠宮妃紀子さま ご家族の絆 通い合うこころ
日の本様が記事を書き出しされています。
http://kabanehosi.seesaa.net/article/278150685.html
2008年12月13日号週刊現代
『伯父の急逝、そして「尊敬する父が倒れた」 雅子さま公務復帰決意の陰に悲壮「父・恆氏が脳梗塞闘病」』
父親が倒れたから公務復帰とは、おかしな話。それまで、出来ていたものをやらなかったという話になる。
以下、掲示板に投下されたレポートより
「今夏、雅子妃の父・小和田恒氏が、急病で倒れた。」(宮内庁幹部)
「小和田恒氏は今年の春から夏にかけて体調不良となり、軽い脳梗塞と診断されて、都内の病院に入院したと聞いています。
その後、故小渕恵三元首相がかつぎ込まれた順天堂大学病院に再入院したのですが、これが、都内の病院からの転院だったのか、それとも、退院後に、二度目の発症があったことによる入院だったのかはわかりません。」
誌面のキャプ。雅子様髪伸ばし始めて祭祀参加の準備か?11月20日の日本PTA50周年記念式典にドタ出など、本格的回復の兆しと書かせている。
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228641066025.jpg
日の本様より。2008年12月 陛下のご心労 当時の各社報道。
http://kabanehosi.seesaa.net/article/186824712.html
更に備考
『大正・昭和初期」の真実』水間政憲著
「小和田家は江戸時代まで家系がたどれない」として、反対され「雅子さん」は候補から外されたのですが、昭和天皇が崩御され入江侍従長が皇居から去ってからまた「小和田雅子さん」が皇太子妃候補に復活したのです。」
事実とすれば昭和大帝の崩御待ち入内で、「不敬な」話。
皇太子が兄と慕った高円宮と小和田家(高円宮と小和田は小和田の夫人を通じてつながり)とのタッグで入内ゴリ押し、そこへ自らの出自が格下になる、格式高い家久邇家からの品のいい美貌の娘を避けたい美智子皇后の強力プッシュがあり、本来入内してはならない娘の入内。自らの失策を認めたくない皇后が際限もなく雅子妃の増長をかばう?
◆ミニ考察 .
11月1日 → 第24回銀座の骨董大市(7月開催)に内親王の「御地赤」が出品されていた事が発覚。
*皇太子妃病状発症が、第一、第二ティアラとも姿を消した時期と重なる。
*皇太子妃の殊の外強い海外訪問願望に対し、皇太子の単独海外訪問はおかしい。晩餐会用のティアラ、宝飾品が無いか、或いは、模造品の為、晩餐会出席不可能だったか。
*ティアラを着用する国内公務出席が極端に少なく、海外訪問しても晩餐会欠席のケースが多い。
オランダでは、ホテルで両親と飲み交わし談笑する元気があるのに、晩餐会はさぼって中途半端な参列。
トンガは、格式張らずティアラ無しで良いので出かけた?
平成23年12月:週刊新潮(12月1日号)
ブータン大統領ご夫妻の晩餐会に対して皇后陛下が雅子妃を外したと記事が掲載される。事実なら10月中旬の出来事。宮内庁は記事内容を、HPで否定。
発端はカンボジア王の晩餐会の準備で皇后陛下が、席次の評を見て雅子妃の名前を指し「もうこちらの方はよろしいのではないかしら」と発言したとされる。
拙ブログでは廃太子廃妃の上、秋篠宮家の移譲を願っています。
また最近の天皇陛下の祭祀の短縮や、中止を拝見していると、
秋篠宮殿下に祭祀を伝授の上、摂政として立てられることを
提案します。皇太子に祭祀を行う器量も頭脳もないのは、両陛下が
一番ご存知だと思います。