先稿で同趣旨のことを述べましたが・・・・・中国人が伝統的に持つ残虐性と日本人のそれとはしょせん相入れません。
彼らが言い立てる「南京大屠殺」とやらの残虐を日本人がまずそのメンタリティにおいて出来ないと思いますし、逆に中国人ならやれるでしょう。
こういうことをおおっぴらにいう人もいないし、そういうことが言える土壌も日本にはないですね。ここも病んでいる点でしょう。
いずれ中国における人肉食の伝統についても記しておいたほうがよいのですが、文脈次第ではいたずらに中国人を貶めることになりかねないので・・・
朝鮮の嘗糞や大便酒トンスルなどはご勝手にどうぞの世界ですが、人肉食は時に被害者がいますのでね・・・。現在でも◯◯のスープや、胎盤エキスなどのレポートはなされていますが・・・・。
南京大虐殺が行えるメンタリティは中国人独自の感性であるという証明のためになら記せることかもしれませんが・・・それは、いずれ・・・。残虐で、記す気持ちにもなかなかなれませんし。
以下は、中国人が伝統的に持つ残虐性を示す処刑「凌遅刑」(=人を貼り付けにして肉を削いでいく刑)つい最近の中華人民共和国時代の画像数枚ですが、残酷すぎるので直接の画像アップはいたしません。
見るお気持ちのある方だけ、どうぞ。
http://www.chinasmack.com/2010/pictures/slow-slicing-photos-female-criminal-late-qing-dynasty.html
人肉食、カニバリスム(Cannibalism)は原始的種族や極限状況における一過性の食方法として実在していますが、一国の食文化として存在するのは中国だけでしょう。以下の言葉が、長い人肉喰らいの歴史を物語っているようです。
(注:これらは言語として残っていることから、あったのだろうということで記載しています。一つ一つに対して専門家的検証を行ったわけではありません。更にリサーチしてみて、改めて記事にするかもしれませんが・・・それはあくまでも、中国や日本の左翼が言い立てる南京大屠殺への対抗としてですので)
「喫人」=チーレン=人肉食
「両脚羊」=二本足の羊=人間の肉
「不羨羊」=羊を上回る若い女の肉
「和骨爛」=煮こめば骨まで柔らかくなる子供の肉。
「想肉」=人肉の中で一番、美味い部位。男の両腿と女の乳房。一度食べるとまた食べたくなる懐かしさという意味で「想」。
「易子而食」=自分の子は、さすがに食べたくないので近所の子と交換して、食べる。
「臠」:人肉の刺し身。「凌遅刑」という刑で食べられた。
「醢」=塩辛。干して麹を酒に漬けて密封。孔子の高弟、子路が醢にされた。と伝えられる。
「炙」=人肉バーベキュー(『韓非子』)。
「腊」=人肉の天日干し。
「血饅頭」=饅頭を血に浸し売られていた。1860年頃。
魯迅が描いた伝統的風習『薬』では1865年頃、罪人の手首を切り落とした時の血に浸した饅頭(まんとう)が血饅頭と名付けられ販売された。
「塩屍」=人間の塩漬(『唐書』秦宗権伝)
孔子の弟子がこの塩漬けの刑に遭い、その人肉は孔子の食卓にも届けられた、と黄文雄さんの著書「呪われた中国人 中国食人史の重大な真実」にあります。日本人は知りませんが、儒教は人肉、とりわけ敵の肉を食らわねばならぬという思想。(黄氏の記述です)。処刑の塩漬けは、つまり敵方に食われるという意味です。孔子自身、人肉を食べていたという黄氏説ですが、さすがにこれは、にわかにはうなずき難いところ、もう少しリサーチしてみます。ただエピソードとして以下は事実です。
【孔子の十大弟子の一人「子路」が、衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていた頃、衛国に父子の王位争いが起きた。孔子の弟子子路はこのお家騒動に撒き込まれ、屍は細かく切り刻まれ「醢」にされた。それは孔子の食卓にも届けられた。それ以降孔子は人間の塩漬け肉を口にするのはやめた・・・。黄氏だけの説ではなく、このエピソードは「礼記」「東周列国志」「荘子」にも記されているそうですが、べべこは未確認です。黄氏の説に懐疑的な説もありますが、エピソードとして孔子が人肉を勧められたというのは事実のようです】
史書に見る人肉食の歴史。
「酒を飲んだ後の人間の味は、ちょうど粕漬けの豚に似ている」 (『唐書』朱燦伝)
黄巣の乱で賊は人々を捕らえて食用にした。
一日ごとに数千人をも食べてしまった。(『唐書』黄巣伝)
人肉市場では「市中人肉を売る、斤あたり百銭(文)。犬肉は五百銭」(『資治通鑑』唐紀)902年
人肉市場あり。豚よりも安く、若い男の死体が一万五千銭。米一斗数万銭。犬肉五百銭。
「本草綱目」1587年 漢方薬の本に「人」の項目あり。骨、陰毛、精液、ふけ、大便、尿。
(朝鮮の大便食い、犬喰らいなどは宗主国中国からのものかもしれませんね)
張献忠(有名)という盗賊とその一味が四川省の人々を食べまくった。記録あり。1644年。
1894年、アルバート・フィッシュの手紙。清の人肉市場では肉がポンドあたり1~3ドル。
1965年、文化大革命の時代にも人肉宴会が行われていて、生徒が教師を食べた事件も。
魯迅が描いた伝統的風習『薬』では1865年頃、罪人の手首を切り落とした時の血に浸した饅頭(まんとう)が血饅頭と名付けられ販売された。
「嬰児のスープ」=嬰児湯。2004年、遼寧省でのニュース。一頃、インターネットでこの赤ん坊のスープが出まわっていましたが、現在では見当たりません。
(それらしきものを1枚見つけましたが、確証が持てないのと、残酷なので載せません)
【備考】
支那人の食人肉風習
桑原隲藏
この四月二十七八日の諸新聞に、
目下露國の首都ペトログラードの食糧窮乏を極めたる折柄、官憲にて支那人が人肉を市場に販賣しつつありし事實を發見し、該支那人を取押へて、遂に之を銃殺せり。
といふ驚くべき外國電報が掲載されてある。私はこの電報によつて、端なくも、古來支那人間に行はるる、人肉食用の風習を憶ひ起さざるを得ないのである。
一體支那人の間に、上古から食人肉の風習の存したことは、經史に歴然たる確證があつて、毫も疑惑の餘地がない。古い所では殷の紂王が、自分の不行跡を諫めた翼侯を炙とし、鬼侯をにし、梅伯を醢にして居る。炙は人肉を炙ること、は人肉を乾すこと、醢とは人肉を醤漬にすることで、何れも人肉を食することを前提とした調理法に過ぎぬ。降つて春秋時代になると、有名な齊の桓公、晉の文公、何れも人肉を食して居る。齊の桓公は、その嬖臣易牙の調理して進めた、彼の子供の肉を食膳に上せて舌鼓を打ち、晉の文公は、その天下放浪中、食に窮した折柄、從臣介之推の股肉を啖つて饑を凌いだ。漢楚交爭時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒にし、之を俎上に置いて高祖を威嚇した。高祖は之に對して、幸分二我一杯羹一と對へてゐる。これらの應對は、食人肉の風習の存在を承認せずしては、十分に理會出來ぬことと思ふ。
支那人の人肉を食するのは、決して稀有偶然の出來事でない。歴代の正史の隨處に、その證據を發見することが出來る。中に就いて尤も著るしい二三の實例を示さう。第一の例としては隋末の劇賊朱粲を擧げねばならぬ。彼は人肉を以て食の最美なるものと稱し、部下に命じ、至る所婦人小兒を略して、軍の糧食に供せしめて居る。唐末の賊首黄巣の軍も亦同樣である。黄巣の軍は長安沒落後、糧食に乏しく、毎日沿道の百姓數千人を捕へ、生ながら之を臼に納れ、杵碎して食に充てた。この時討手に向つた官軍は、賊軍を討伐するよりも、彼等の糧乏しきに乘じ、無辜の良民を捕へ、之を賊軍に賣り付けて金儲をしたといふ。隨分呆れた話であるが、支那兵の所行としては、あり得ることかも知れぬ。朱粲や黄巣の事蹟は、何れも『舊唐書』に見えて居る。また『五代史記』に據ると、五代の初に、揚州地方は連年の騷亂の爲、倉廩空虚となつた結果、人肉の需要が盛に起り、貧民の間では、夫はその婦を、父はその子を肉屋に賣り渡し、肉屋の主人は彼等の目前で之を料理いたし、羊豚と同樣に、店前で人肉を賣り出したといふ。(後略)