旧稿 「橋下徹という男の文化度」2012-09-24にやや手を入れての再掲です。
橋下氏の発言がさまざま物議をかもし、またこの人ほど毀誉褒貶の激しい人もいませんが、文化度に関しては非常に低い・・・・・感受性と教養はゼロ。
当初は優良と感じていた頭脳も、屁理屈生産機ではないか、と薄っぺらく感じる今日このごろ。権力べったりに擦り寄るのは昔から。小沢一郎の、玉袋サンとしてぶら下がっていそうな媚び方をしていたこともあります。
それに最近ではバックの朝鮮人勢力が嫌でも見えて来ましたね。
在特会桜井氏との討論はお互いディベート未満で惨状でしたが、しかし
桜井氏がそれなりに終始一貫しているのに対して、橋下氏は
逃げの詭弁連発、この人特有の論理の建て方が、貧しい脆弱な形で
露呈していました。
それにしても、東に舛添、西に橋下。何という日本の民度でしょうか。
投票した人たち、恥を知りなさい。バカに与えるな選挙権。
橋下氏の「正体」が、あちこちで言われ始めている現在(注2012-09-24時点)、文化的野蛮人であると言わざるを得ない橋下氏のもう一つの側面を提示するのも意味があるかと、敢えてやや古い記事を持ち出しました。
色文字がBBです。
産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120728/lcl12072800150000-n1.htm
橋下大阪市長、止まらぬ批判 「勉強不足では」文楽関係者も困惑顔 2012.7.28 00:14大阪市の橋下徹市長の文楽批判が止まらない。27日には「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑に落ちない」、前日には人気作「曾根崎心中」を批判するなど、わずか観劇2回で、文楽の様式や作品内容にまで発言がエスカレート。文楽には、人形遣い個人の魅力を楽しむため江戸時代から顔をみせるようになった歴史がある。観客動員の努力不足などを指摘する橋下市長の発言に一定の理解を示す文楽関係者らも「勉強不足では」と不信感を募らせている。(亀岡典子)
文楽はありとあらゆる世界の「人形劇」の中で洗練を極めた日本の至宝であり、世界が共有する財産であり、パペットに関わる世界のアーチストたちがひれ伏すごとき存在です。
それを僅か2回の観劇で、自分の理解能力を越えていたからと言って無造作に裁断する。つくづく、精神年齢の幼い方です。頭はいいが精神は幼い。
初めての観劇の時には、誰でも人形遣いの存在に違和感を覚えると思います。しかし、少し感性を備えた人なら人形の動きにつれ物語が進行するうち、人形遣いが視界から消え失せてしまう不思議を目の当たりにして、人形浄瑠璃の精髄を早々と感受することになります。
そして操られる人形に目を奪われるうち、ふと操る人を思い出し視界にまた人形遣いが現れる。そして気づきます。人形遣いがもはや人形と一体化して、共に泣き嘆いているその姿を。そして再び人形遣いの姿は消え失せ、人形たちが息づく浄瑠璃の世界に没頭します。操る人形遣いと操られる人形が渾然と彼我の境があやめも分からぬ、それは日本独特の境地でもあります。主体と客体が厳密に立て分けられる西洋と根底で異なる点で、これを探ると日本人の供養の心にも行き当たります。使う針にすら己を託して供養する。
当初人形遣いは一人だった。人形が息づくように動く、そのためには3人の人形遣いに行き着き、しかし長い修練を経てそこにいても「見えなく」なるまで芸は磨きぬかれ、隠すべき裏方を敢えて表舞台にさらして、しかしいつしか作品の中に溶け込んでしまう・・・・という世界にも類例のないアートに昇華しました。
一体の人形に対して人形遣い3人が人形と同じ板(舞台)にいるからこその、人形たちのリアルで繊細な動きでもあります。文楽も歌舞伎と同じく男性の世界です。袴姿の凛々しき男が、女の情感を表現して身をよじる、そこに虚構の得も言われぬ味わいが生じる。人形遣いが隠れては、それが成り立たぬのです。また歌舞伎の黒子と同じく見えていても見ない、という「約束事」の世界でもあります。古典芸能はこの約束事と型を抜きには成立しません。
男の野太い声の義太夫が女ごころの情念を切々とかき口説く、それが芸の妙味というものです。橋下さんにはおそらく歌舞伎の退廃の美学もお分かりにならない。男だからこそ、異性の目で見た女を表現できる、その機微もアートの仕掛けも理解出来ないでしょう。
ひとえに美意識と教養の領域に属する事柄です。
とかく、現世的な利益に話題が終始しがちな上方ですが、豪商の富に支えられたからこそ、絵画にしろ歌舞伎、文楽にしろ豪奢と洗練の極みである芸術が花開いたのです。上方は江戸とは一線を画すアートの宝庫です。橋下さんにはそれが解らない。
歌舞伎はすでに世界に有名、上方ならず江戸にもある。しかし文楽こそは、まさに大阪の至宝なのです。世界にもっと誇って売りだしてもいい。本物が解る人々は熱狂して受け入れる。たとえばパリ、ニューヨーク。持って行けば人々は熱狂する。
麻生さんのアニメの殿堂が渡辺謙の意見を代表とする如き愚かな人々に寄ってたかって潰されましたが、文化コンテンツと技術の保護育成という見地から建造は必要でした。作っておくべきだったのです。中韓を中心に日本のアニメと漫画は盗まれています。また経済的見地から言えば、外貨を稼ぐ貴重なスポットとして、秋葉原はさらに聖地になって、世界から人々が詣でていたはずです。
京友禅も滅びの一途にあり、長い歳月をかけてつむがれた日本のアートがこのままで廃れる道筋にあり、文楽も危うくなりつつあります。それらが廃れることは、日本の精神の一角が消滅することと同様なのです。
橋下市長が国立文楽劇場(大阪市)で文楽を鑑賞したのは26日夜。その後、竹本源大夫さん(80)ら人間国宝の楽屋を表敬訪問した後の記者会見で、「『曾根崎心中』の脚本は昭和30年に作られたそうだが、ラストシーンがあっさりしすぎ。ファン獲得のために演出を考え直すべきだ」と批判。記者の「文楽のほとんどが江戸時代に作られた。それでも見直しが必要ですか」との質問に、橋下市長は「へえー、そうなんですか」と答えた。
天才近松が脚本を書いたのは江戸時代。復刻されたのが昭和30年です。「演出を考えなおすべき」とは何の勘違いでしょう。橋下さんの言い分は近松の脚本を書き換えよ、というとんでもない提案で、英国でシェイクスピアの演劇の結末が気に食わないから書き換えよ、というごとき愚かで傲岸不遜の言です。
「曾根崎心中」は江戸時代に近松門左衛門が人形浄瑠璃のために書いて大当たりをとった。その後、心中が流行したため、幕府は心中物の上演を中止。ようやく昭和30年に江戸時代の脚本をもとに復活された。
三味線の鶴澤藤蔵さん(47)も「『曾根崎心中』が作られた時代、経緯もご存じなかったようですし、ただ面白いものを作ればいいという考え方にはうなずけない」と戸惑う。
その時々の流行り廃りに連動するテレビドラマと、文楽という伝統芸と橋下氏は混同しています。文楽は浅薄な視聴率の世界のものではありません。
橋下市長は、文楽の演出についても批判したが、そもそも文楽をはじめ古典芸能には「演出」は存在しない。長い年月の中でさまざまな人たちの手で磨かれた「型」があるからだ。
さらに橋下市長は27日には、前夜見た舞台について「人形劇なのに人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」と発言。これに対して国立文楽劇場の制作担当は「江戸時代から人形遣い個人の魅力が楽しめるよう、半透明の幕から人形遣いが見えるやり方をしていた。それが顔を出す原点」と説明する。
記事にあるように、スターとしての人形遣いがありてこその、江戸時代のファンサービスが原点です。それが更に人馬一体ならぬ人形遣いと人形渾然一体の日本独自の至芸を生み出すこととなりました。
人形遣いの桐竹勘十郎さん(59)は「文楽は、人形を遣う3人、そして人形という、全部の影かたちで一つの役。そこが他の人形劇とは異なるところ。根幹の部分でわかってもらえていない」と困惑する。
勘十郎さんの仰るとおり。「文楽は、人形を遣う3人、そして人形という、全部の影かたちで一つの役。そこが他の人形劇とは異なるところ」です。人形浄瑠璃はまた、音楽と語りで綴られる人形ミュージカルともいうべき日本特有の世界ですが、浄瑠璃の太棹の音色に共鳴する「和」の感性をどうやら橋下さんは、お持ちではないようです。
長年文楽を見続けてきた作家の有栖川有栖さん(53)は橋下市長について「文化行政に一石を投じた」と評価しながらも、「最近の相次ぐ発言は高い芸を磨いている文楽の人々を侮辱するもの。どんな芸術でも、一、二回見ただけでわかる人はほとんどいない。知識を深めたり何度も見たりしながら好きになっていく。もし、橋下市長のように『僕の感覚』で文化を取捨選択するなら、大阪ではその基準の文化しか残らない」としている。
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拙ブログ主は文楽の観劇後、橋下氏がテレビ取材に対して「退屈で2度見る気がしない」とコメントしているのをオンタイムで聴いています。不遜だと思いました。感性が未熟な人なのだとも。
文楽は基本的美意識と教養が身についてない人には解らない世界です。解らぬ己をまず恥じなさい、と申し上げたい。
橋下徹、笑止。
無知であるのは仕方がない。誰しも不得意の分野はある。しかし、その無知を自覚せず言いたい放題するのは教養と品性の欠如ではないでしょうか。
政治にも「教養」のバックボーンが必要です。政治には政治家の品格が反映します。
幼い。奇妙に幼い。その視点で見ると政治というおもちゃで遊んでいるIQは高いが、精神発達の遅い子供と目に映じて来るのです。(注:これは、2012年当時の見方で、現在はバックの朝鮮勢力に操られているおのれがパペットかと思えます。チープな操り人形が、洗練の極みの文楽を痛罵している図)
感性や知識の欠如は看過するとしても、一つの伝統に向きあった時の敬意の無さが気になります。それが引いては日本という国への敬意の希薄さとつながるからです。
中国にも韓国にもないもの。それこそが伝統です。中国にはあった。しかし、文化大革命でそれを断ち切ってしまった。その意味では両者、建国以来百年も経っていない精神未熟児の国です。妙に気になるのは、橋下さんに同じにおいをふと感じる点です。
国旗に敬意を払えという。それはいい。しかし、文楽への態度から推し量るに、一般に国を愛する人々が素朴に感じている日の丸への敬意とは、ちょっと異なるのではないでしょうか。白地に赤い日の丸の「美しさ」を橋下氏の感性は捉えているでしょうか。日本の感受性と精神の美を橋下氏は理解しているでしょうか。
それを理解していない人の国づくりを拙ブログ主は信じません。
文楽の基礎知識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%A5%BD
http://www.lares.dti.ne.jp/bunraku/mystery/ni_tukai/index.html
名品 曽根崎心中
文楽人形浄瑠璃 曽根崎心中 下之巻 お初徳兵衛道行
この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づゝに消えてゆく で始まる名作の結末を変えよとは、橋下徹,無知と不遜も度が過ぎよう。浄瑠璃の七五の口説きは、まさに「和」のリズムで日本人の本然に持っている情感をかきたてる。・・・はず。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/bbcc5cfb811a0af14d8cdeba44cce028
非常に冷静な、文楽にまつわる橋下徹批判です。中に橋下さんの「言い訳」も記載されていますが、文楽を批判する自らの立場を巧みに自己正当化するレトリックは橋下節ともいうべきもので、橋下さん特有の論理の組み立て方の正体が透けて見えます。
橋下さんにはタレント時代に「能狂言を見る者は変質者」という発言があるそうな。お里が知れます。
それにしても、この人もタレントとして唐突にテレビに出始め、いきなりレギュラー枠を得た人です。橋下さんの場合は知りませんが、ミッツ・マングローブやテリー伊藤、杉村太蔵などパチンコ朝鮮勢力への協力者が解りやすい例です。
テレビ番組のメインスポンサーの多くが在日系だし。
テレビで売っておいて在日組織が「使う」というノウハウがあるのではないか、と睨んでいます。
川越シェフも同じようなにおいがしますね。顔も髪型もそっくりな「学者」タレント古市憲寿も。
飛田新地の売春光景
h ttp://gigazine.net/news/20120521-tobita-shinchi/
橋下徹氏は、ここの顧問弁護士でした。ご本人は「合法」と言い抜けていますが、売買春が合法であるわけはありません。風俗じたいに目に角立てる気はないのですが、橋下氏得意の詭弁の一つとしてサンプル提示でした。
しかしこういう売春加担の過去がありながら、「慰安婦問題」に口など挟まないで頂きたいものです。