軽いつまんない話題です。忙しい方は読まないでください。
コメント欄に某ブログのご紹介を頂いたので、読んでみました。
h ttp://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2067.html
一箇所ちょっと気になったところがあったので、
(いえ、間違いではないのです。実に些細な言葉のニュアンスです)
この部分です。
なるほど仏教は朝鮮半島を経由して日本にやってきたけれど、仏教はそもそも朝鮮発の文化ではありません。
統◯教会みたいなもので、おかしな具合に歪んだ仏教は朝鮮半島から日本に来たかもしれませんが、日本は遣隋使、遣唐使などを出し、朝鮮半島を「飛び越えて」、直接支那から正式な仏教を取り入れています。
この「正式な仏教」という記述が、どうなのかなと、ちょっと。
間違いではないのです。ただわずかに仏教史を学んだ者には
違和感があります。正確に言えば「正式な中国仏教」あるいは
「正式な大乗仏教」です。
(あと統一教会はもともと、唯一神(ヤハウェ)を崇めるキリスト教系でした。
が、息子の代でどうやら仏教色を出して来たようで・・・・
まあどうせウリなら教で、どーでもいーですね)
●中国経由の仏教は釈迦の教えそのものではない、中国で解釈された経典に基づく仏教です。
どういうことかというと・・・・
まず、小乗、大乗という言葉はご存知だと思います。
大きな乗り物と、小さな乗り物。小乗という言い方は大乗からの侮蔑的意味が
こもっていますね。とりわけ法華経を依経とする創価学会の折伏では、
あからさまに法華経を立てながら、小乗仏教を貶めます。
しかし・・・実は、小乗こそが釈迦直説の仏教であるというのが仏教学者たちの
間でのほぼ定説になって、もう時が経過しています。
仏教は北伝、南伝という言い方もされます。北伝すなわち中国、チベット、日本の
大乗仏教、南伝すなわちタイ、スリランカ、ミャンマーなどの小乗仏教です。
南伝の仏教が「正式仏教」です。
言わずもがな、仏教の祖は釈迦ですが釈迦の教えを正式に伝えたのが
南伝のほう、日本が中国からもらった仏教は、中国解釈仏教で
釈迦直説ではありません。中国のお坊さんが釈迦の教えを基に
再編成した中国バージョン仏教です。
南伝は「上座部仏教」とも言います。
解りづらいと思うので、結論からいうと、
釈迦直説=釈迦が直接説いた言葉を経文にしているのが南伝=小乗仏教=上座部仏教=タイ、スリランカ、ミャンマー
釈迦が説いたのではなく、中国の坊さん(天台大師・智?)が創作した経文=釈迦の言葉ではない=中国、チベット、日本。
なぜ、仏教に2種類あるのか。
人というものはしょうがないもので、群れると必ず分裂します。ご多分に漏れず、 釈迦のもとに集った弟子たちも、釈迦の滅後に分裂を起こします。
釈迦の遺した戒律の解釈をめぐっての論争が基で、二派に分かれ、それゆえ
2種類が伝播されます。
整理します。
●仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教。
●中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。
大乗小乗の優劣は実のところ判りません。釈迦直説がいいかといえば、それを
依経にしている教団もありますが、どうなのかな、と見ていて思うし
では大乗がいいのかと言うと、例えば曹洞宗みたいに、左翼運動組織と
化しているのではないかと思われるくらい、自虐史観に基づく
政治的主張を行っている宗門もあり、こうなるともはや宗教ですら
ないでしょう。創価もとりあえず大乗です。釈迦を持ち出しますが
釈迦はそもそも法華経など唱えていません。
京都などの観光で稼ぐお寺、葬式で稼ぐ葬式仏教と、
およそ釈迦とは無縁のものに成り果てているのが現在の
仏教のありようでしょう。釈迦が戒名などつけて、お金取って
ました? 戒名もランキングがあって高いものは100万とか
そんなものではなかったでしたっけ。
かといってキリスト教もそれが基で戦争が起こっているわけだし
カトリックの司祭には記事にしたことが有りますが、とんでもない
反日の政治運動家もいます。植民地支配の尖兵が宣教師たちですしね。
韓国のなんちゃってキリスト教はもはや、別の宗教であるし
それに引き換え、神道は古来よりきちんとしていたような?
というのは我田引水でしょうか。
そういうと、第二次大戦の国家神道の科を言い立てる人がいるでしょうが、
神道の精神と第二次大戦とはなんの関係もありませんね。
およそ「教」と名がついたとたん、組織ができ、組織は内部に
力関係と、集金の腐敗因子を含む、というのが古今東西、
例外ない事実のようです。
キリストが荒野で得た悟りや、ゴータマ・シッダルタがピッパラ樹の下の
瞑想で得た悟りは、各教団や宗旨宗派とは何ら関係なく、本来は
常に、キリスト個人や釈迦個人の精神に還って行くべきものですね。