韓国や中国に修学旅行に行かせる愚かしい学校がある一方・・・
日本航空高等学校のように親日国パラオへ生徒を送り出す見識の高い学校もあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/jaaw2top/63552621.html
「日本航空高等学校石川 福校長 浅川正人」さんのブログより
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9月20日
今日は、パラオ修学旅行の意義を説明し、歌の練習と神社参拝の練習も行いました。
(一部抜粋)
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「パラオ修学旅行、本日未明に無事パラオに到着し、今日はロックアイランドで泳ぎました」
9月30日(日)
日本では、今日は台風17号の影響で大変だと思いますが、パラオ修学旅行団は本日未明にパラオに無事到着しています。
昨日は午前10時に山梨校を出発し、靖国神社を団体参拝し、本殿で正式参拝を行いました。
そのあと資料館である遊就館を職員の方の案内で二時間かけてゆっくり見学出来ました。
私がいつも授業で話していることと重複することも多く、生徒たちは真剣に話を聞いていました。
(一部抜粋)
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「パラオ修学旅行三日目、南洋神社を参拝しました」
10月1日(月)
本日はパラオ共和国の独立記念日です。1994年10月1日にアメリカから独立しました。
今日は、官幣大社の南洋神社の慰霊祭に参加し、参加者と生徒全員で「君が代」と「海ゆかば」を歌い、最後に生徒全員で「ふるさと」を歌いました。
昨夜から雨が降り、地面は濡れていましたが、慰霊祭が始まるまでには雨が止み、神事が始まると日が射してきました。
英霊もさぞお喜びであったと思います。
明日は、大東亜戦争の激戦地ペレリュー島の島内観光とペレリュー神社での慰霊祭に参加し、午後からは海で泳ぐ予定です。
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「パラオ修学旅行四日目、ペレリュー島に上陸し島内観光と慰霊祭を行いました」
10月2日(火)
本日は朝から波が高く、ペレリュー島まで船が行けるかどうか危ぶまれましたが、島に近づくにつれて波が静かになり、予定通り上陸することが出来ました。
島の所々には大東亜戦争の跡が残り、日米の戦車の残骸や戦闘機の残骸がありました。また、島に来る途中の海の浅瀬に、海に沈むゼロ戦の残骸がありました。
また、戦闘で破壊された海軍司令部の建物を見学しましたが、頑丈な鉄筋コンクリート製で、大正十二年に建てられたもので、当時としては最新の設備であったことがわかります。
我々は、ペレリュー神社で行われた慰霊祭に参加し、昨日と同様に神事を執り行い、全員で「君が代」 「海ゆかば」 そして「ふるさと」を心を込めて歌いました。
その時曇りの天気でしたが、太陽の光が射してきました。
私は、「ふるさと」を歌っている時、硫黄島の映画のシーンを思い出し、胸に迫りくるものがありました。
召集され兵隊として激戦地で戦い、日本にいる妻子を思いながら国のために散っていく兵士の気持ちが伝わって来て声が出なくなりました。
まさに、砲弾の嵐の中、補給路も経たれ、食料も弾薬も尽きようとする中で、最後まで米国を相手に戦っている兵士の様子が浮かび上がってくるのです。
ペレリューの戦いはまさにその戦いでした。未だに多くの方の遺骨が収集されずにいるのです。
神事を行った宮司さんは、「英霊が大変喜ばれています。普通なら今朝の天候なら来られなかった。それが来れたのは守っているからです。」と仰っていました。
慰霊祭のあと、遺骨が埋葬されている「みたま」と称する慰霊碑を訪れ、我々だけで「ふるさと」の歌を歌いました。
午後からは波が静かになり、太陽の光が射し青空も見える中で珊瑚の海でシュノーケルを楽しみました。
明日は最終日で、パラオの高校との交流をします。
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韓国に生徒をやって、わざわざ虚偽の歴史を教えこむ愚かしい学校や教師たちがあまりにも多いことに絶望しかけていましたが、日本航空高等学校や千葉黎明高校のような学校がある間は日本もまだ少しは大丈夫なのかと思えます。
以下は旧記事の復刻ですが、未読の方には是非読んでいただきたく再アップいたしました。
誇リ高キ大日本帝国 「日本とある国のお話」
戦火の火蓋が切って落とされたとき、パラオの男たちは話し合い、自分らも共に闘わせてくれと日本軍に名乗り出る。
「お前らごときとそんなことが出来るかっ!」
と侮蔑的に怒鳴られ、パラオの青年たちは裏切られた思いで悔し涙を流しながら
疎開の船に乗り込む。空襲を避けて夜。
月影のもと、昨日まで苦楽を共にした日本軍の見送りすら無い。大軍で押し寄せるアメリカとは多勢に無勢。一人でも多くの兵士をと申し出た俺達の心がなんで届かぬのか。
日本人って・・・・こんなにも人情知らずの冷たい人たちだったのか・・・
その時。1人が気づいた・・・
あ!
船が沖に向かって進み始めた時、浜にいっせいに駈け出してきた人影は。
日本軍の兵士たちではないか!
おおーい、おおい!
彼らは船に手を振り、日本の歌を声を張り上げて歌った。
パラオの男たちは海に飛び込もうとした。しかし浜はすでに遠い。
そうか、そうだったのか。
俺たちを巻き添えにしないために、俺達を追い払ったというのか、日本の兵士たちよ。
ごめん、ありがとう、一緒に戦いたかったのに。
お前たちは生き残れ、親に孝行しろ、子を可愛がれ、と日本兵の声なき声がパラオの男たちの耳に届く。
そう、日本軍が彼らを冷たく断ったのは、玉砕を覚悟の闘いにパラオの人々を巻き添えにしたくない一心だったからなのだ。
戦は日本軍の覚悟の通り玉砕に終わり、横たわった日本兵のご遺骸をパラオの人たちは嗚咽しながら拾い埋めた。彼らと共に分かち合った笑い、喜び、そして悲しみ、苦しみが脳裏をよぎる。
あの笑顔、あの歌声。幼いわが子を抱き上げ可愛がってくれた若い兵士も冷たくなっていた。ふるさとに、まだ赤ん坊であった娘を残してきたと聞いていた。
運命を共にするつもりであったのに、あなた方は私たちを守り抜き、祖国日本のために戦い抜いた。ありがとう日本。
・・・・しかし・・・パラオの独立記念日に世界からお祝いが寄せられる中、日本の祝はなかった。あたかもその後日本を傷つけ続ける自虐史観「村山談話」の村山内閣の時であった。
動画の5分39秒前後より碑文
この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば
伝えて欲しい。
この島を死んで守った日本軍守備隊の
勇気と祖国を想うその心根を・・・
ペリリュー島守備隊長、中川大佐の遺影と遺品は靖國神社の資料館「遊就館」に展示されています。
日本と日本軍を愛し敬った人たちは多い。アジアの植民地を自由の天地へ解き放ったのは日本だ。世界には親日国が多い。
ペリリュー神社
所在地 パラオ・ペリリュー州 主祭神 天照大神ペリリュー島の戦いで戦死した日本兵・軍属 創建 1944年(昭和19年)
碑文の作者はしかも、敵のアメリカ人なのです。
ペリリュー神社の境内には、日本軍の戦いぶりに衝撃を受けた太平洋艦隊総司令官のチェスター・ニミッツの作として
「諸国から訪れる旅人たちよ 、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い 、そして玉砕したかを伝えられよ 」米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz」
という文字列が彫られた石碑(1994年に建立)がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E7%A5%9E%E7%A4%BE
敵をして見事だと感嘆せしめる。
大和の民は温和なるも、ひとたび立ち上がるや烈々たる気迫に満ちてありき。
真の日本人たちのご遺骨はいまなお、パラオの土にある。
ペリリュー島の風よ、せめて兵士たちの思いを祖国日本へ運んでおくれ。
靖国へ届けておくれ。
彼らのお母さんも、もうこの世にはいない。
(祖国の紅葉をもう一度見たかった。降る雪に額を濡らしてみたかった。
桜吹雪のそのかげを、幼子の手を連れて歩いてみたかった。
妻よ、老いたる母よ、父よ、幼い妹よ)
(おおい、おおい、祖国の愛しきものたちよ。
君がためわたしは命を捨てた。悔いはない)