言われるだろうな・・・と懸念していたら、やはり言われました。
パンダの死について、中国のネットでの反応(の一部)はこういうものです。
「あいつらは悪意をもってパンダの赤ちゃんを殺したんだ」
「赤ちゃんパンダの死にはきっと政治的な含みがある」
「絶対に日本人がわざとやったんだ」
「今後はパンダ1頭の死で“首相を1人換える”といった態度で中国に申し開きしろ」
(控えめに、一部、と書きましたが、中国のネットにはこの種の日本への罵り文が溢れている、と週刊新潮7月26日号は報じています)
年間1億円近く中国に「保護協力資金」という名の見え透いた名目でレンタル料を払い、死んだ時には(直接借り受けたパンダの場合)賠償金を払うというバカバカしい契約です。神戸市立王子動物園のパンダ(14歳)の死の時は損失補償金として50万ドル(約4,100万円)が支払われました。もちろん、レンタル料の他にです。飼育下での寿命は14歳から20歳とされていますから、神戸市のパンダがとりわけ早逝だったというわけではありません。
http://alfalfalfa.com/archives/949567.html
年間レンタル料以外に、飼育費(施設維持費含む)、研究費、専門スタッフの人権費、空調付きの施設建設費がかかります。
日本にとってはバカバカしい契約というのは、日本がODAに託して中国へ渡し続けてきた莫大な支援金を考える時、パンダぐらい無料でもバチは当たらないだろうと思うからです。
他には中国人留学生への援助金、国内の中国人への生活保護費、医療補助費等含めると毎年巨額の援助を中国にはしています。
中国の45回にも及ぶ核実験による放射能混じりの黄砂対策費だって、日本は支払って来ているのですよ? 黄砂が日本に吹き付けて来るのは自然災害ですが、放射能や有害重金属の類は中国の責任です。それでも日本は中国の尻拭いをして来ました。パンダの1頭ぐらい、気持よく無料で貸す程度の義理が中国にはあるのではないでしょうか。
絶滅危惧種として売買がワシントン条約で禁止されているので「レンタル」という形を考えたのでしょうか。ワシントン条約が禁止しているのは、商業目的のための国際取引で、学術研究目的(動物園などでの展示を含む)の無料貸与は無問題のはずですが。だからこそ、仙台市長が無料貸与を願い出たのでしょうが、あの中国共産党が無料で貸すものですか。10年生存していれば、10億の収入。平均寿命で死んでも賠償金、それらが「貸してやっている」という態度で手に入るのですから、止められないビジネスです。
そもそも、日本人はパンダで騒ぎ過ぎないでしょうか。
大津市でのイジメ問題で少年1人の死に、いまだ献花台も設けられないでいる現実を傍らに、パンダの赤ちゃんのために号外まで出て、献花台が設えられました。
上野動物園の方は記者から吊るし上げられる格好で、謝罪の言葉を泣きながら述べるという有様で、一方大津市の少年の死に教育長も校長も涙1つ見せません。
パンダの赤ちゃんの死の確率は70%もあるのに、テレビはパンダ1頭のために日本中が喪に服したかのような哀悼ぶりです。あまりにも異常な現代の日本の姿ではないでしょうか。
テレビはパンダの死に泣き叫ぶ幼い日本人の子供の姿をあたかも美談であるかのように映し出し、その基本にある、算盤片手の中国のしたたかなパンダ外交にはいっさい触れようとはしません。
パンダが中国の外交上の駆け引きカードの有力な1枚に過ぎないこと、冷静に理解すると同時に、ここまで日本に恩を着せられ、死亡率70%の赤ちゃんパンダの死を、殺したとまで罵られるなら、パンダはもうお引き取り願っても構わないのではないですか?
確かに上野動物園のパンダはスカイツリーと相まって周辺の経済効果は大ですし、子供たちには愛されています。しかし、一地域から国益の観点で考えるに、パンダはどうも「割に合わないのではないか」と思えてならないのです。
たとえば尖閣問題での中国の根拠のないゴリ押しがパンダ外交で目逸らしされている部分もあると思いますし、パンダへの価値観はそもそも「初めてパンダが日本へ来たときのインパクトが大きかったからか、パンダは凄いものというタネが今も勝手に成長してパンダ中毒症を引き起こしています」と中国出身の石平氏が言うように、実体以上の価値観が、大人にも子供にも刷り込まれてしまった感が拭えません。
パンダが漢民族の土地にも生息していることは事実で、巷間中国への反感から「パンダはチベットの固有種である」というのは言い過ぎですが、チベット人居住地にも生息していたのは事実で、少なくとも中国の固有種的売り方は間違い、パンダは中共のチベット侵略と虐待の象徴であるという捉え方だってあるわけです。
しかも、パンダの赤ちゃんを殺したと日本に濡れ衣を着せる発言の一方、森林を伐採その後植林することもなく自然破壊をして、動物たちの生息領域を狭めているのは中国です。そして度重なる核実験で大気や植物を汚し続ける。
パンダは中国のもの説、チベットのもの説と2種類の説があり拙ブログではこれ以上、その領域には踏み込みませんが、しかし、
「パンダを日本が殺した」と言われちゃあ、言わせていただきたいことがあります。
この間の上海での万博の折、日本から好意で出展した錦鯉が、中国当局の手で毒殺されました。パンダの赤ちゃんの死のような、悪意によるガセネタではありません。
手塩をかけて錦鯉を育てた新潟県の、当時は山古志村(現長岡市)の人たちの目の前で、村の人達の抗議も無視され、錦鯉たちの水の中に毒が流し込まれました。
この間の経緯は、櫻井よし子さんが週刊新潮(2010年11月25日号)に詳しく述べていらっしゃいます。
【抜粋】
「中国人数人が突然入ってきて、我々以外全員を外に出し、バタバタッと水槽を取り囲みました。物々しい雰囲気の中で鯉を指して、『病気があるため殺す』と言ったのです。私は思わず言いました。『病気なんかない。入国のときにきちんと検疫を受け、中国側も認めたでしょう』と。しかし、いくら言っても、『病気だ』の一点張りです」
「『ふざけるな、何年もかわいがって、作り上げてきた鯉を(殺すなんて)、人道的じゃねぇ』と言ってしまいました」
激しく言い募る氏を、仲間たちが止めた。「もう止せ」と言いながら、1人はボロボロと涙を流した。そのときだ、中国側が突然、水槽にドボドボドボと液体を注ぎ込んだのは。
「途端に鯉が痙攣し始めました。もう助けようがありませんでした」
――――抜粋。以上――――
池に氷が張る冬は屋内に移し、丹誠込めて育て上げた錦鯉です。
中国の方々に喜んでいただこうと、選りすぐりの錦鯉はしかし、理由も定かならず殺されてしまいます。
日本に持ち帰ることは契約上出来ない、ということは承知で運んだ錦鯉たちでした。
中国の人たちに、ずっと楽しんでいただけるなら、喜んで中国の地に置いてこよう、と。
目の前で理由も告げられず殺された錦鯉が、ぽっかりと浮かぶ姿を山古志村の人たちは、震える拳で涙を拭いながら見つめているしかありませんでした。手を叩けば、わっと寄って来て、口を開けて餌をねだり、頭を撫でても逃げない鯉たちでした。
山古志村の人たちは、中国側の毒殺する様子を動画に収めていますが、公開をすることを止めました。
その動画を公開すれば、せっかくの日中間の友好に水をさすと、涙を飲んで、抗議の声も怒りも悲しみも胸の中に収めてしまったのでした。
一方の中国は、故意に殺したのでもない赤ん坊パンダをだしに、日本を悪し様に罵る。
パンダなど要りません、お返しします、と言いたいのはべべこだけでしょうか。
いえ、このような「まがいもの」の友好を、お金で買ってはいけないのです。子供たちは悲しむでしょうが、真実に目隠しする教育よりはよろしい。
人生は感傷で渡れるほど甘くありません。それを学ぶいい機会でしょうし、パンダがいざいなくなればマスコミの持ち上げも、黒柳徹子や近藤真彦のような愚か人も担ぐお神輿が無くなり、子供たちは別のものに興味の対象を見出すでしょう。
博覧会の錦鯉たち。生簀もずいぶん粗雑です、可哀想に。しょせん生き物への意識や命への敬意が全く異なるのですね。
・・・・・それにつけても、多民族共生など日本人にとっては画餅でしかないだろうと思われるのは日本人と他国人(中国人、韓国人)の感性の徹底的な異質ぶりで、それは相手が動物であれ魚であれ、自ら育て上げたものには愛を抱き、供養する心を抱く日本人にとって中韓人の粗雑さには決して馴染めないだろうと思うのです。
宮崎の口蹄疫の時、畜産業の人たちは手を合わせて泣きながら、安楽死の殺処分して手厚く葬りましたが、韓国の場合は牛も豚も生き埋めで彼らの絶叫が辺りに響いたと云います。どうせ食べられるもの、どう扱ってもいいという考え方が中韓なのでしょう。チベット侵攻の折の中共兵の残虐性、あるいはベトナム戦争時に韓国兵がベトナム人に行った極悪非道を思えば、牛馬や、食べるための犬をなぶり殺しにする残虐さなど彼らにとっては、どうということもないのでしょう。
しかし、動物や植物に対する感性はすなわち人間性であり、人間の格でもあります。針や人形すら供養する日本人の心根を彼らは決して理解できないでしょう。
韓国 口蹄疫・豚の生き埋め現場
中越大地震の際に、村に置き去りにされた牛たちを、危険を冒して救いに出かけたのも山古志村の人たちでした。
亡くなった牛たちは村人たちの手で丁重に葬られ、ひまわりが植えられました。北の村に遅い夏がやがて来て、今年もまた黄金の花たちが朝陽に輝き、風に頷き合って、震災で逝った牛たちの魂をなぐさめるでしょう。
韓国では生き埋めにされた牛や豚たちの血が大地に滲み、腐敗のガスを噴き上げ異臭が辺りを満たしました。
日本と韓国、日本と中国・・・・共に歩めますか、暮らせますか?