タイトルが仰々しくて気がひけるのですが、かねてより
人としてはむしろ立派で、物事の理非曲直もわきまえた人が
往々にして左翼思想に近い立場に立つことが謎でした。
日教組の「狂育」をもろに浴びた左翼病患者のごとき「脳弱」さんたちは
除きます。いちおうの思考感情双方のバランスが取れた方たちの
左翼傾斜について考えてみました。
だから、民主党なら何がなんでもよいといったような人たちは
文字通りの論外とします。
倫理的にもバランスが取れているので、彼らは正義を尊び虚偽を
厭います。
暴力にはアンチであり、平和を願います。
ここまでは、ほぼ誰しも一緒だと思うのです。
ただ、ここから道は大きく左右に枝分かれして行く。
人道派は戦争を厭うあまりに、軍隊の排除、自衛隊の否定、九条墨守の
道を選びます。
ここが浅慮の選択ミスです。
彼らの視界から決定的に欠落しているのが、「現実」です。
人道派としての「理想」が肥大して現実が見えなくなっています。
最大の問題点は、世界が全て人道派である時以外は彼らの論は通用しない、
どころか悪用されて、無防備につけ込まれます。
端的に言うなら、性善説で外交は成立しない。やられる。
人種差別はよくない。
そのとおりです。
しかしながら、人道派はここでも勘違いをします。
明確な個々の理由があって韓流を排除すると、その理由は問わぬまま
差別だ狭量だという感性。韓国が芸能人を使った戦略という「現実」は見ない。見えない。
韓国が日本の領土を侵略している国であり、仮想敵国として日本を置いているということも
思考から欠落している。
その国の芸能人を過度に歓迎することは領土侵略の容認に結びつくことが解らない。
芸能が、かの国が仕掛けてくる戦略への目逸らし、目くらましの役割を
果たしていることにも考えが及ばない。
中国の非をつけば、中国人がいかに日本の経済を潤しているかを説いてくる。
日本がODA名目でいかに、理不尽な大金を中国に貢がせられているか、その金額は
個々の来日中国人たちが日本に落としていく金額よりも上回る巨額であるという
「現実」には目が行かない。
数十回に及ぶ核実験による放射能混じりの黄砂対策の費用を毎年、風で
送り届けられている身で、その黄砂対策費を日本が出す理不尽にも
無頓着。
「みんな仲良く」というお題目で頭が占められているので、中国人への
ビザ緩和の問題点も見えない。
中国人の大量受け入れと中国の「国防動員法」とが結びつく可能性、危険性も
考えない。
少なくないのです、このての人道派。そしてとりあえず知識人、文化人。
一芸一能に秀でているので、その発言も影響力がある。
自分の発言がよもや日本の毀損に連なるものであるとは夢にも思ってはいない。
かといって、普段の言動が目に立って偏っているとか、的を外しているとか
というレベルではなく、基本は概ね正論なので、厄介です。
平和とか平等とか寛容とか、それから典型的言語である「愛」を
持ち出されると誰も異論は挟めない。
ところが個々論としての「現実」に、彼らの解くところの
論説は当てはまらない。机上のお題目、きれいなシャボン玉でしかないのです。
拙ブログは、旧日本軍容認の立場にはありますが全てを肯定しているというわけではない。
総論としての位置づけでは是の立場です。
ところが人道派は、たとえば実際に目撃した憲兵の横暴を持ち出してくる。
話の内容は、無残です。それはあってはならない。誰しもその点に関しては
そう思います。
ところが人道派の短絡は、一人の憲兵の残虐非道があった=ゆえに軍部は横暴であった=ゆえに
戦争はいけない。
大筋論から脇筋論への短絡です。
「戦争はいけない」。正論です。誰も反対はしない。
しかし、ここでも欠落しているのは、個々起きた戦争の中身=現実、を
検証する視線です。
暴力が降り掛かってきた、言葉では通じなくなった。では、その暴力を
どうやって避けるのか。
無抵抗を説く人もあり、それはそれで一つの「論」ではあります。
しかし、ここでも抜け落ちているのはその選択の中には、
選択能力のない子どもたちをも巻き込んでしまうという「現実」です。
不戦を標榜していても、巻き込まれる時には巻き込まれる。
人道派の大いなる勘違いは、無抵抗を選べば暴力はそこで絶える、という思い込みに
あります。無知です。ここでもチベットやウィグルの「現実」を
欠落させている。
彼らは抵抗はしましたが、中国軍の圧倒的な力の前には無抵抗に等しいのです。
無抵抗の結果、何が起こったか。
文化の破壊、殺戮、強奪、暴力、拷問、強姦・・・。果ては人種の断絶まで。
早い話、チベットが軍事大国であったなら、核を保有している国であったなら
ここまでの惨状は迎えなかった。少なくとも故郷喪失で流浪の民にならずに済んだのではないか。
人道派の典型的特徴は自国である日本を過剰に反省、批判する一方で
他国の暴虐非道、他国民が日本人になした殺戮と暴力に関しては
無邪気なまでに無頓着な点です。
世界は悪意と奸計に満ちています。隙あらば、他国を引きずり下ろし、
あわよくば、侵略しようと虎視眈々としている国がある。
いや、日本の最大の不運は世界でもたった二つしかない反日国として
日本に牙をむき出している国々が隣りにいるというその「現実」です。
「愛」や「平和」「戦争反対」が世界共通の言葉なら、北方領土問題はありません。
竹島は侵略されていません。対馬も尖閣も狙われません。
こういう人道派の論説に出くわすことは日常でもあることです。
彼らに対抗するには、具体的事実を示して、これに対して
あなたの主張する人道的見地からどう「現実的に」対処できるのですか、
と問いかけるしかありませんね。
普段の勉強が必要になってきます。
差別がない世界を望みます。
しかし「現実」の世界はいまだ憎悪と偏見、誤解に満ちています。
戦争がない世界を希求しています。
しかしながら「現実」ではいまだそれは武器なくして保てない。
人間の深い「業」が果てるまで、その「現実」は続きます。
やや逆説的な物言いをするならば、「人類が愛や平和を説くのは、まだ分不相応ではないか」。
人類はいまださほど上質のレベルにはありません。
いつか、争いの絶えた愛の世界が実現することを激しく望みつつ、
でも私は手に武器を持つことは忘れない。
世界がいっせいに武器を手放すその日までは。
【追記】
コメント欄に頂いたご意見へのべべこのレスが、そのまま
補足記事になりそうなので、やや手を加えてコピペしておきますね。
【憲兵的なるものは、いずれのどの時代にも
団体にもいるんですよ、姿を変え形を変えて。
会社にもいますね。
要するに「個人の資質」や「人間性」に属することで
日本軍自体がそれをもってして
即横暴とするのは強引です。
戦争というものには縦社会の権力がつきまとい、その
権力を背景にした、人格の低い人達が
非道をしやすかった、という側面はありますね。
しかしながらそれと、軍隊否定論とは全く別物です。
相撲の世界の親方にも一部いるじゃないですか。
だから大相撲否定ということにはなりませんね】
人としてはむしろ立派で、物事の理非曲直もわきまえた人が
往々にして左翼思想に近い立場に立つことが謎でした。
日教組の「狂育」をもろに浴びた左翼病患者のごとき「脳弱」さんたちは
除きます。いちおうの思考感情双方のバランスが取れた方たちの
左翼傾斜について考えてみました。
だから、民主党なら何がなんでもよいといったような人たちは
文字通りの論外とします。
倫理的にもバランスが取れているので、彼らは正義を尊び虚偽を
厭います。
暴力にはアンチであり、平和を願います。
ここまでは、ほぼ誰しも一緒だと思うのです。
ただ、ここから道は大きく左右に枝分かれして行く。
人道派は戦争を厭うあまりに、軍隊の排除、自衛隊の否定、九条墨守の
道を選びます。
ここが浅慮の選択ミスです。
彼らの視界から決定的に欠落しているのが、「現実」です。
人道派としての「理想」が肥大して現実が見えなくなっています。
最大の問題点は、世界が全て人道派である時以外は彼らの論は通用しない、
どころか悪用されて、無防備につけ込まれます。
端的に言うなら、性善説で外交は成立しない。やられる。
人種差別はよくない。
そのとおりです。
しかしながら、人道派はここでも勘違いをします。
明確な個々の理由があって韓流を排除すると、その理由は問わぬまま
差別だ狭量だという感性。韓国が芸能人を使った戦略という「現実」は見ない。見えない。
韓国が日本の領土を侵略している国であり、仮想敵国として日本を置いているということも
思考から欠落している。
その国の芸能人を過度に歓迎することは領土侵略の容認に結びつくことが解らない。
芸能が、かの国が仕掛けてくる戦略への目逸らし、目くらましの役割を
果たしていることにも考えが及ばない。
中国の非をつけば、中国人がいかに日本の経済を潤しているかを説いてくる。
日本がODA名目でいかに、理不尽な大金を中国に貢がせられているか、その金額は
個々の来日中国人たちが日本に落としていく金額よりも上回る巨額であるという
「現実」には目が行かない。
数十回に及ぶ核実験による放射能混じりの黄砂対策の費用を毎年、風で
送り届けられている身で、その黄砂対策費を日本が出す理不尽にも
無頓着。
「みんな仲良く」というお題目で頭が占められているので、中国人への
ビザ緩和の問題点も見えない。
中国人の大量受け入れと中国の「国防動員法」とが結びつく可能性、危険性も
考えない。
少なくないのです、このての人道派。そしてとりあえず知識人、文化人。
一芸一能に秀でているので、その発言も影響力がある。
自分の発言がよもや日本の毀損に連なるものであるとは夢にも思ってはいない。
かといって、普段の言動が目に立って偏っているとか、的を外しているとか
というレベルではなく、基本は概ね正論なので、厄介です。
平和とか平等とか寛容とか、それから典型的言語である「愛」を
持ち出されると誰も異論は挟めない。
ところが個々論としての「現実」に、彼らの解くところの
論説は当てはまらない。机上のお題目、きれいなシャボン玉でしかないのです。
拙ブログは、旧日本軍容認の立場にはありますが全てを肯定しているというわけではない。
総論としての位置づけでは是の立場です。
ところが人道派は、たとえば実際に目撃した憲兵の横暴を持ち出してくる。
話の内容は、無残です。それはあってはならない。誰しもその点に関しては
そう思います。
ところが人道派の短絡は、一人の憲兵の残虐非道があった=ゆえに軍部は横暴であった=ゆえに
戦争はいけない。
大筋論から脇筋論への短絡です。
「戦争はいけない」。正論です。誰も反対はしない。
しかし、ここでも欠落しているのは、個々起きた戦争の中身=現実、を
検証する視線です。
暴力が降り掛かってきた、言葉では通じなくなった。では、その暴力を
どうやって避けるのか。
無抵抗を説く人もあり、それはそれで一つの「論」ではあります。
しかし、ここでも抜け落ちているのはその選択の中には、
選択能力のない子どもたちをも巻き込んでしまうという「現実」です。
不戦を標榜していても、巻き込まれる時には巻き込まれる。
人道派の大いなる勘違いは、無抵抗を選べば暴力はそこで絶える、という思い込みに
あります。無知です。ここでもチベットやウィグルの「現実」を
欠落させている。
彼らは抵抗はしましたが、中国軍の圧倒的な力の前には無抵抗に等しいのです。
無抵抗の結果、何が起こったか。
文化の破壊、殺戮、強奪、暴力、拷問、強姦・・・。果ては人種の断絶まで。
早い話、チベットが軍事大国であったなら、核を保有している国であったなら
ここまでの惨状は迎えなかった。少なくとも故郷喪失で流浪の民にならずに済んだのではないか。
人道派の典型的特徴は自国である日本を過剰に反省、批判する一方で
他国の暴虐非道、他国民が日本人になした殺戮と暴力に関しては
無邪気なまでに無頓着な点です。
世界は悪意と奸計に満ちています。隙あらば、他国を引きずり下ろし、
あわよくば、侵略しようと虎視眈々としている国がある。
いや、日本の最大の不運は世界でもたった二つしかない反日国として
日本に牙をむき出している国々が隣りにいるというその「現実」です。
「愛」や「平和」「戦争反対」が世界共通の言葉なら、北方領土問題はありません。
竹島は侵略されていません。対馬も尖閣も狙われません。
こういう人道派の論説に出くわすことは日常でもあることです。
彼らに対抗するには、具体的事実を示して、これに対して
あなたの主張する人道的見地からどう「現実的に」対処できるのですか、
と問いかけるしかありませんね。
普段の勉強が必要になってきます。
差別がない世界を望みます。
しかし「現実」の世界はいまだ憎悪と偏見、誤解に満ちています。
戦争がない世界を希求しています。
しかしながら「現実」ではいまだそれは武器なくして保てない。
人間の深い「業」が果てるまで、その「現実」は続きます。
やや逆説的な物言いをするならば、「人類が愛や平和を説くのは、まだ分不相応ではないか」。
人類はいまださほど上質のレベルにはありません。
いつか、争いの絶えた愛の世界が実現することを激しく望みつつ、
でも私は手に武器を持つことは忘れない。
世界がいっせいに武器を手放すその日までは。
【追記】
コメント欄に頂いたご意見へのべべこのレスが、そのまま
補足記事になりそうなので、やや手を加えてコピペしておきますね。
【憲兵的なるものは、いずれのどの時代にも
団体にもいるんですよ、姿を変え形を変えて。
会社にもいますね。
要するに「個人の資質」や「人間性」に属することで
日本軍自体がそれをもってして
即横暴とするのは強引です。
戦争というものには縦社会の権力がつきまとい、その
権力を背景にした、人格の低い人達が
非道をしやすかった、という側面はありますね。
しかしながらそれと、軍隊否定論とは全く別物です。
相撲の世界の親方にも一部いるじゃないですか。
だから大相撲否定ということにはなりませんね】