皇后陛下が皇太子妃時代の和歌に、こういうのがあります。
新しき 貴(とうと)きいのちの あゆみここに はじめまさむか 御靴(おんくつ)まゐらす
昭和36年、東久邇宮成子様 薨去 御船入りの儀に詠まれる
あの世で、新しい命を得て再び歩まれますように靴をお棺の中に入れて差し上げました、
というほどの意味です。靴を棺桶に入れるのは皇室の習慣なのでしょうか。
当時はきっと(いえ今も)、心優しい東宮妃のお歌として世の中には出回ったの
でしょう。
だが!!
天女の顔つきで詠まれたその裏の顔は、夜叉。
東久邇成子さまは昭和天皇と香淳皇后の長女でいらっしゃいます。
悲しみに打ちひしがれ、那須の御用邸にいらっしゃる香淳皇后のもとを
美智子妃殿下は、皇太子(今上)と引き連れ訪れ普段から
持っていた文句を「姑」にぶつけているのです。
娘の喪がまだ開けないお方に向かって。
美智子妃殿下は気性が激しく、気に食わぬ者に対してねちっこく執拗に
責め立て、時にヒステリックな金切り声を上げる、と
報道されたことがあります。
この時、美智子妃は直接反論した、と浜尾実の著書『皇后 美智子さま』 (浜尾 実著 小学館)にあります。
浜尾が引いた記事内容によると、
『皇后陛下にはご気性に激しい側面がおありで、御所の中では時折、
甲高いお声を上げられたり、お気に召さないことをすると延々とお小言を賜る』
その他には、
『宵っぱりの両陛下は午前1時、2時になってからも、インスタントラーメンを
つくってください、りんごをむいて、と下命する』
『昭和天皇の愛した吹上御所の自然林を丸坊主にし、新御所を建設したのは
美智子さまの意によるものだった』
『天皇・皇后の(平成5年)9月の訪欧時、ご服装の新調代に3500万円かかった』
こうした記事に対して、誕生日会見の時に皇后陛下は反論なさったわけですが・・・・
しかし、たとえば新御所に果たして美智子さまの意向がまったく関わっていないかといえば、全体に奇妙な・・・・これが日本の象徴である天皇陛下の住まい? といぶかしい、日本離れした建物の建設に携わった建築家はキリスト教正教徒内井昭蔵(聖名ガウリル)であり、そういう意味で言えば異教徒美智子様のお仲間です。
それに、昭和天皇夫妻が住まわれていた吹上御所に住まわれれば
いいだけのこと。なぜわざわざ新御殿を建設せねばならなかったのでしょう。
さまざま意向を通している両陛下なので、一言「もったいない。止めましょう」
と言えば通ったはず。また衣装については、とっかえひっかえ、欧州旅行の
衣装が3500万円かどうか知りませんが、とっかえひっかえの衣装に
大金がつぎ込まれているのは事実。
香淳皇后があんな、着せ替え人形やモデルみたいなお衣装替えを
なさったでしょうか?
以下は読者さんからのレポートです。
吹上新御所 2017-04-04 20:54:44 あん 池上彰の皇室番組 《転載ご...
吹上新御所の正面部分が番組で紹介されていましたが、
何故今まで、上空写真ばかり取り上げられていたのか、
不思議に思っていたのですけど、内装はともかく、
外装に物凄い違和感を感じました。
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1491301171939.jpg
調べてみると、
この御所に携わった内井昭蔵と言う建築家は教会も設計していますが、
祖父・河村伊蔵は聖ニコライに仕えた正教会の聖職者で、
函館や豊橋のハリストス正教会の建設に携わっています。
父・内井進も大正から昭和にかけて銀行建築などを中心に設計を行い、
金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、
およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わっています。
内井昭蔵自身、クリスチャンとして教会ですごすことが多かった
幼少期の経験をもとに建物を多く設計したそうです。
高円宮邸も内井氏が設計していますが、高円宮邸は、昭和に建てられており、
昭和天皇の手前、品位のある設計になったのかもしれません。
マント服といい、確信犯です。
上皇后だなんて、とんでもない。
護衛付きでわざわざ皇居外周を散策、
徘徊した翌日は、スカイツリーに落雷。
皇室から出ていって欲しいです。
転載 ここまで
神道の祭祀王がお住いの御所建設にわざわざキリスト教徒起用などと、美智子様の存在を感じざるを得ないのは、普段の言動もあるでしょう。
入内してからも、御所近くのカトリック教会に出没、母校聖心女子大の
クリスマスミサにも、まめにご参列です。
一族郎党皆、カトリック。
美智子様と母親冨美さんだけが例外というのはあり得ないでしょう。(冨美さんは、臨終前受洗とされてますがもっと早かったと思います)
そして婚約スクープのこの写真。
この写真を懇意の朝日新聞記者に見せられたとき、美智子さまはどっと
泣き崩れたと記者は後に書いています。冨美さんいわく、
うちはキリスト教徒だと思われてるので、まずい・・・と。
それにしても、なぜ美智子さまは朝日新聞記者が部屋を訪れた時、
こんな格好をなさっていたのか?
「挨拶回りの衣装」と答えたそうですが、こんな格好で挨拶回りって、
相手はカトリック教会じゃないんですか?
これ以前にも以降にも、こんな衣装を見たことがありません。
神道の最高位の家に嫁いだ人のなさることではありません。けじめを
著しく欠いているというべきでしょう。
それにしても、一新聞記者の青年が一人だけ、なぜあの時代の
“良家”の子女の私室に自由に出入りできたんだか?
一般記者が入れぬ、正田家への秘密の通路を知らされていたそうな。
美智子さんが惚れていたという説もあったような。
何しろ、お見合い歴20回を越すお方で、天皇陛下の前に
波多野という青年と婚約寸前だったと、当時の国会で
追求されていたほど、華やかでいらした美智子さまなので・・・・
皇后の二面性については、過去記事で述べています。
「ご慈愛仮面がはがされるとき~皇后陛下もう一つの顔」
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/fee5ae552b2897a1c47fc162b9be2ae2
以下、転載。
(東久邇成子さまは)
心労のためかどうか、癌をわずらわれ、わずか35歳でこの世を去られたのです。五人の子供を残されて。
昭和天皇皇后の哀しみは痛切で、香淳皇后は成子様を入院させた宮内庁病院に毎日お通いになりました。良い家柄のお家に降嫁させたものの、敗戦による娘の家の逼迫ぶりはご存知で、さぞかし不憫に思し召しであられたかと存じます。
初めて授かった愛しい我が子が、日々やせ衰えてゆく。生まれて初めて抱きしめた時のあの、やわらかさ、小さな指のたわみ、ほのかな息。ありがとうございますと、神にとも知れず祈ったあの日。
残されたまだ幼い5人の孫達の不憫さ。
お心を千々に乱れさせた香淳皇后は、医学で絶望的なことを認められず、怪しげなことにも救いを求められたようです。この辺り、民間の母親と同じですね。お立場上、人前で涙を流すことは許されず、それゆえ声を忍び泣き明かされたこともあったことでしょう。
成子さまが旅立たれ、魂も抜けたようにやつれゆく香淳皇后は、せめて心ゆくまで泣きたいと那須の御用邸に身をひそめます。
身をお隠しになって、慟哭の日々。
そこへ皇太子夫妻(今上陛下、皇后陛下)が、ふいに訪れたのは成子様ご逝去から僅か25日目でした。
哀しみに暮れる皇后陛下のおなぐさめに?
いいえ、なにか自分たちの不満をぶつけるためです。
その不満の内容は解りませんが、その間のことは入江侍従が日記にしるしています。
・・・・・・・
「昭和35年2月23日(火)快晴
4時15分親王ご誕生、御母子ともおさわりないとの事。これでよかった。本当に安心した」
「昭和36年8月11日
最近の奥のおかしな空気、東宮さまと妃殿下(現天皇、皇后)に対すること・・・・・・まったく弱ることばかり。下らなさに腹が立つが、そんな事話し合う」
「昭和36年8月16日(水)快晴
那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事」
・・・・・・・ここまで
今上陛下にとっては、一番上のお姉さまです。
また美智子皇后にとっては、皇室内で唯一自分の結婚を歓迎してくださった恩人です。
異例の民間妃入内にあたっては、皇后陛下はじめ全てが反対の中、唯一の味方が成子さまであり、これは想像ですが、両陛下の説得にあたって成子様の一言は重たかったのではないでしょうか。最愛の第一子が、賛成と言っている・・・・
いわば恩人の喪の最中に、その母親である皇后陛下を訪れ、何ごとかといぶかしめば‥‥‥・当然お見舞いであろうとお迎えすれば、日頃の不満ぶつけ。
「皇后さまは終始一言もお発しにならなかった」
という入江侍従の記述から、香淳皇后のお心のうちは読み取れますね。懸命に耐えていらしたのだと思われます。
嫁だけならまだしも、息子がこの思いやりの無さ。さなきだに、悲しみに打ちひしがれているところに、息子とその嫁から浴びせかけられる不平不満。
将来の天皇皇后に対して侍従が「くだらなくて、腹が立つ」とまで書き残しているのだから、相当のことであったのではないでしょうか。
この時美智子妃は、第一子である浩宮様がすでにお生まれになっていたのだから、第一子に先立たれた母の哀しみと苦しみは解るはずでしょうに。
それを夫とともに、文句を言いに静養先にやって来る・・・・・。
夫の母であるお方が憔悴していらっしゃる時に。そして、逝去されたお方は夫の
姉であり、自分の入内を心から歓迎してくださった方。その思いも美智子様にはおありにならなかったのでしょうか。
宮中へ戻られるのを待たず、静養先に押しかけての鬱憤ぶつけですから、相当激しかったのではないですか? 日記によると長時間のようだし。「冷酷」という文字が脳裏を過るのは、大仰でしょうか。そう言えば、自らを批判した浜尾侍従の葬儀は皇居から目と鼻の先の教会で営まれたのに、参列していず、それだけならまだしも、さんざん養育係として世話になった皇太子も行かせていません。
この、なさり方! いくらお腹立ちでも、息子ぐらいはやりませんか。
念のため、当日の皇太子のスケジュールを調べてみたのですが、どうしても外せないもの、キャンセルできないものは入っていません。
浜尾さんの批判は、皇室も良かれと思っての発言だったと思います。
今、読んでも正論なのですから。当事から皇后が天皇を尻に敷いていることにも警告を鳴らしています。皇后の顔色を伺いながら天皇は動いていらっしゃると。
入内に際しての香淳皇后さまの反対と、那須の御用邸での逸話から美智子さまが香淳皇后さま他にいじめられていたように噂を流す人がありますが、どうなのでしょうね。
皆無であったとはいいませんが、現在画像その他で検証する限り、世間に流布されているような陰湿で激しいものではなかったような?
皇后陛下はああいう、おっとりしたお方であるし常磐会が意地悪だと言っても、身分は皇太子妃美智子様のほうが圧倒的に上なのですから。
雅子妃などは「それなら、皇太子妃を辞めます!」と言い放っていますが、お立場は似たようなもので、強いでしょう。言い放つぐらいなら、とっととお辞めになればいいものを、餌箱の餌は手放したくないのです。脅しとしておっしゃったのなら、それこそお里が知れますね。
女性なら即わかると思うのですが、意地悪な口うるさい姑が「近所」に住んでいる状況で、とっかえひっかえ、流行最先端の時には突飛な洋服や帽子で、お出かけできます?
今でも日本人には少々柄の悪いと思われている、濃いサングラスに高いハイヒール。これが、姑にいじめられている嫁でしょうか?
仮に多少はあったところで、娘を逆縁で喪って打ちひしがれているところへ押しかけて来て、日頃の不満を息子と息子と結託して、ぶつけて来る嫁。可愛くはありませんね。しかも言葉の端々に皇室でそれを主張しては伝統が壊れてしまう「男女同権」を匂わせる嫁。
押しかけなんて、いじめられていた嫁が出来ることではないでしょう? 後が恐ろしくて、夫だけやるのだけでも、怖いのに。さすがは母上が「皇室とのご縁談はstruggle(闘争)」ですと言ってのけた、その娘さんではあります。あの時代に言えませんよ? わざわざ横文字でおっしゃるところも、風変わりです。日本人離れしているといおうか。それに戦前から天皇は格別に偉くないのよ、とお教えだったようです。さしてお偉くないところに、私は嫁いだのよ、だから男女同権でいいのよ、ということでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・過去記事転載ここまで
新しき 貴(とうと)きいのちの あゆみここに はじめまさむか 御靴(おんくつ)まゐらす
で、想起されるのは、こちらですね。まるで悠仁親王お誕生を呪うかのような片足靴を「まゐら」された皇后陛下。皇室では、靴は棺桶に横たわる死者への贈り物だとご承知でのお振る舞い、しかも片足だけ!
この画像、以下の、皇后陛下の持たれた服喪の花を連想させませんか?
正田美智子さん入内前のこと、正田家を訪れたGHQの要人たち。
正田家は美しく報道されていますが、戦勝国GHQとアメリカの小麦粉利権で癒着した売国の家です。
また皇室との条件闘争をストラグルと表現した冨美さんは、「上海夫人」と言われています。侮蔑の呼称です。
当時の上海は、魑魅魍魎の世界。鳩山幸さんの母親も上海にいました。
この母娘の出自のいかがわしさは、過去記事に記しました。(宝塚時代の
同期生にお話を伺ったのですが、お母さんは貿易会社の秘書だったり、英語の先生だったり設定が変わるのですが、神戸で米兵相手の何かをなさっていらしたという噂が、宝塚内ではあったと)
上海夫人と指摘したのは、皇室内の高位の女官だったと思いますが、今史料が見当たりません。→ 読者のKUONさまから提供頂きました。
>橋本明氏の著書「美智子さまの恋文」
>新潮文庫72~74ページにかけて、松平信子氏の言葉として、あります。
>決まってしまった東宮妃の教育を任された信子氏は、なんとか格好をつけねばと努力されます。本心は反対でしたが、つとめであると。
>「ご返事が、ねえ、なってなかったの。うつむいて声が通らない。意思表示がはっきりしない。ハイとお答え遊ばせ。私は強く申し上げたわ」
>「美智子妃が東宮殿下のお荷物になってはいけない」
>と一点に絞ったあげくに、ある日、こう言い放った、と、あります。
>「わかったわよ、すべてが。母親の富美さん、上海育ちだったわね。彼女は大陸夫人です。だからよ」
・・・・・・・・・ここまで
伏見様のブログで、上海夫人の中身を解説されています。
http://fushimi.hatenablog.com/entry/2016/10/23/060000
確かに・・・・冨美さんは当時の日本女性にしては、在りえないほどの長身。顔も白人っぽく、長男もそうですね。一家、皆長身で足が長く美智子様の妹は、足が細くまっすぐなのに、美智子様は短く大幅なO脚。
「両殿下は御忍びでよく正田家にお見えになりました。皆さんが思っている以上に 来られています。そのたびに私は『手伝いに来てくれ』と呼ばれるのです。私の 役目は、侍従とか女官の相手をすることでした。お母さまは、お二人が見えられると ほんとにうれしそうなお顔をされていましたね。夕食はわりと中華料理が多かったと思います。
就寝時間があるのか、食事をすませると、お子様だけ先にお帰しになり、そのあと、 両殿下はゆっくりとすごされました」
新証言「母・富美子さんと密会のとき」 文藝春秋五月特別号 ・美智子妃のご成婚前から正田家に仕えて来た澤田喜一郎氏(仮名)より。
ご実家にはめったにお帰りになれない悲劇の妃と報じられていたのは嘘。
香淳皇后にいじめられていた嫁が、こんなに頻繁に里帰りできますか、しかも皇太子殿下を引き連れて?
しかも、鎌倉の正田家の別荘でも美智子さまと皇太子は、ひんぱんに会っていて、冨美さんもまた皇居に出入りしています。
それが、週刊誌の美化による歪曲ではこうなっています。
《・皇后陛下は成婚のとき庭に白樺の木を植え「これからはこれを私だと思ってください」
流産で葉山に静養中も富美さんは「家に帰ってきなさい」と言いたかったのをこらえて会いに行くこともしなかった。
・1965年、礼宮が誕生され、ご一家は軽井沢へご静養へ。
一度でいいから孫を抱きしめたいと思っていた正田夫妻と、偶然出会ったというようにセッティングされる。
・間もなくご一家を乗せた車が到着すると連絡を受けた正田夫妻は、前日までの雨でぬかるんでいた道路で土下座。
職員が立ち上がるように声を掛けても止めず。
・到着した車内から飛び出してきた皇太子殿下は泥に汚れた祖父母の手を取り
「私のおじいさま・おばあさまなのだから顔を上げてください」
・これは皇太子殿下にとって強烈な印象を残し、(妻の両親に)そのような思いをさせたくないのではないか。》
今読むと、悲劇のヒロインにオオウケですが、当時はまともに受け止められてたのでしょうね。
庭に白樺の木を植えて、「お母様、美智子は嫁ぎます。もうお会いできなくなるわ。これからはこの木をわたくしと思ってくださいましね」
って、テニスで「やばい!!」と叫んでた娘が言うかってのw 当時の良家の娘のたしなみ、お茶お花和裁は出来ず、その代わりにテニスに英会話、ピアス穴耳に開けてボート漕ぎ、ってw
ぬかるみに土下座した正田夫妻wwww
皇室との条件闘争を「ストラグル」と表現した冨美さんがw
「天皇が偉いという教育をうちではしていません」と言い放った冨美さんがw
ちなみに、当時8月の長野では、ぬかるみが出来るほどの降雨量はなかった、と調べた人がいます。
1966年8月の長野県の天気
ttp://weather.goo.ne.jp/past/1966/08/610/index.html
こわいわぁ、鬼女さまw
母がstruggleなら、娘はpurify
皇后、失声症回復した時の第一声が、「もう大丈夫、私はピュリファイ(purify、浄化)されました」
なんなんだ、この母娘。
アメリカ耶蘇かぶれ母娘ざます。
後記 和歌の新しき 貴(とうと)きいのち
ってのも、ちょっと不思議だった。神道に死後得る新しい命って
概念があったかしら? これ、キリスト教の天国での命の
ことだったりして?
付記 読者さまご紹介の西村眞悟氏によるキリスト教批判
http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1303
BB自身は、聖者キリスト個人は認めますが、そこから派生してできた
宗旨宗派は、邪悪なものとして捉えています。
人間の本来の自然さを押さえつけ、それは偽善を産み、
侵略の道具となってきました。
神拝詞(となえことば)
祓え給い、清め給え、
神(かむ)ながら守り給い、
幸(さきわ)え給え
コメ欄、お名前欄のUnknownや「あ」のような、いい加減なのや、「文章の一部をHNにしたの」とか、受け付けません。「名無し」「匿名」「通りすがり」も受け付けません。
記事のどこが、なぜ間違いなのか指摘できないバカは来なくていいです。
必然性のない「非公開」指定は固くお断り。レスがつけられず言われっぱなしなので。