戦後間もないころの御徒町の画像って、風俗的には大事なのに一枚も拾えません。
5年後の1950年の画像がかろうじて拾える程度。
欲しいの敗戦直後の混乱期。米兵と朝鮮進駐軍が入り乱れ、良家の子女、奥様が食い詰めてパンパンをやっている、そんな欲望と絶望と自棄のるつぼのような、画像が欲しいのだけど。
でもまぁ、こういう雰囲気だったかな。美智子さんが徘徊してたと根強く噂されている御徒町って、きっとこんなふう。上の駅からアメ横抜けて徒歩10分程度かな。
当時は、占領軍による性病検査で抜き打ちの膣検査なんかがありました。
街を歩いているだけで、呼び止められて。中には正規の検査ではなく、
それを装ったわいせつ行為もあったのではないかしら。
朝鮮人が物陰で、日本人女性を強姦していた時代です。子連れの奥さんなんかがやられていた時代。むろん、アメリカ兵によるレイプも多発。
もし、正田美智子さん時代の美智子さんが、御徒町を本当に徘徊していたとしたら、GIたちとの接触は当然あったでしょうね。
GHQの選任した初代宮内庁長官の田島道治は興信所の調査の結果、「母方(正田富美)の系図に疑問が残った」と正直に言っていますが・・・・・・大陸系という噂は事実でしょうか。
「天皇は偉い人と教育してない」とか「ストラグル」とか、“日本人離れした”感性の方であの時代の女性にしては、背が高いですね。
直感的に、チャイナ服がお似合いな体型でいらっしゃると思う・・・・。
大陸の血がお入りになってらっしゃる・・・・?
ただ大陸系なら脚は真っ直ぐで、形もいいのですが正田家では
美智子さまだけが皆さんより背が図抜けて低く、脚はO脚なのが?
チークダンスはかなり、性的なダンスです。
あの時代の良家の子女は、生花と料理、お茶はマストアイテムだったはず。 人によっては和裁も。このバラの投げ入れ方はありえないし、色彩もマチマチ。
生活感のない料理風景。
以上は全部お出来にならず、テニスが得意、英語が達者というのも当時の上流階級では異端。テニスの時に「ヤバイ!!」と叫んでいたというのも、あり得ない話(朝日新聞記者の証言)
そして、何よりも奇異なのがピアス。
同級生は、襟をびしっと全部ボタンを止めているのに、美智子さんだけは
第一ボタンを外しているのも、乱れた感じ。
ピアス関連画像は、でれでれ草様より拝借しました。
あの時代にピアスは、オンリーさん(と中華他の海外系)だけです。
オンリーというのは、米兵に体を売っていた女性が一人の
男に操を立てることです。
この時代の風俗を調べている間に巡り合った、近親者にパンパン、それもオンリーさんだった方がいる人からお話が聞けました。あと中国ではかなり古い時代から、ピアスは用いていたようです。そりゃあ纏足の国なので、耳に穴をうがつことなど、なんてこともないでしょ。
以下、その方に書いて頂いた、お身内の身の上話です。
身内の恥になりますが大叔母の第二次世界大戦後の様子を詳しく聞いておりますのでお知らせします。
大叔母は昭和4年生まれで敗戦当時16歳でした。
16歳のとき朝鮮進駐軍を名乗る男に陵辱されて、妊娠し娘を出産しました。
その年齢では食べるだけで精一杯の時代で育児など出来るはずもなく、大叔母の母親の娘、つまり妹ということで戸籍にいれました。
そして上野駅の近くのGHQの集まる飲み屋で働き始め軍人に身体を売るという事を生業にしていました。
昭和23年頃、大叔母の馴染客で大叔母を妻にしたいと言う米兵が現れ、その後大叔母は米兵との結婚のため、戦争花嫁としてアメリカに渡りました。
当時の風俗なのかは解りませんが、彼女はいわゆるオンリーさんとしてピアス穴を開けて、肩に入れ墨で米兵さんの名前を彫り六本木にあったかまぼこ宿舎と呼ばれる進駐軍のエリアでそれなりに裕福に暮らせていたようです。
ただその米兵の田舎はオハイオの貧しい農家で、英語もろくに話せない大叔母を家族として米兵の親族が認めず下女のような扱いだったそうです。
米兵との間には3人の子供を産みましたが、進駐軍で来ていた米兵も田舎では大叔母を庇わず、結局10年程度で大叔母は逃げるように離婚したそうです。
16の時の実子は戸籍上妹扱いだったので一緒に渡米もさせられず、孤児院のようなところに預けられていました。
叔母には日本に帰るお金も無くオハイオから逃げるのに子供を捨てたような形でアメリカの別の島に逃亡しました。
学もなく英語もまともに話せない彼女に出来る仕事はやはり身体を売る仕事だったようです。
昭和40年代に日本が裕福になって、日本人がアメリカに観光に来られる経済力を身に着けたとき大叔母は45歳くらいでしたがようやく日本人相手の免税店で働く事が出来、生活も安定しました。
日本語しか読み書きが出来ない大叔母にとって幸せな時間が訪れたという訳です。
売春を生業にしていたので、日本の家族に連絡も取らず必死で生きてきたようです。
免税店で25年ほど働いて、78歳で彼女はケアホームに入居しました。
そしてようやく日本の身内に連絡を取り、彼女の居場所などが解りました。
日本に捨てていった娘とはやはり絶縁状態で不仲でしたが、大叔母の住まいに渡米して会うことは出来ました。
そのとき私も同行したので大叔母の壮絶な半生を本人から淡々と聞かされました。
大叔母のしてきた事は現在の日本の倫理上では許される事ではありませんが、終戦の混乱で運命を変えられてしまった少女がいたというのは紛れもない事実です。
2年前に大叔母は86歳で亡くなりアメリカで荼毘に伏されました。
大叔母が80歳のとき、車椅子でしたがようやく日本の土地に半世紀ぶりに帰国でき、親類と涙の再会を果たしました。
恩讐があった大叔母の娘も時が解決したのか穏やかに接して、娘の家で半月ほど滞在して孫やひ孫と会えて、大叔母の戦後にけじめがつきました。
そういう日本女性が多々いたことは知られていない影の歴史だと思います。
あなた(BB)にこういう書き物をして渡そうと思ったのは、韓国人の従軍慰安婦像の事も史実とは異なるのだと思ったからです。
本当に身体を売る事を生業にしていた女性なら当時の事など語りたくも無いでしょう。公に。
彼女たちに出来ることが売春だけであって、それなりに裕福に暮らせた時代もあったのですから。
今の価値観で売春業を非難したり、補償を要求するのは筋違いだと思います。
世界各地に建てられた韓国人売春婦の少女像を見ると悲しくなります。
それは政治的に歪められたとても悲しい事で、日本人の方も朝鮮進駐軍に人生を壊された事があった史実もあったのだとご理解ください。
長文で書いてしまい申し訳ございません。
もし私の長々しい駄文があなたのブログ記事とやらに使えるのでしたらご自由にお使いください。天国にいる大叔母も許してくれると思います。
・・・・・・・ここまで
そしてパンパン嬢たち(良家の子女もいた)のファッションの主流は、極端に誇張した肩パッドです。
といって、正田美智子さんがそれ関係であった、というわけではありません。
ただあの時代に、御徒町出没(もし事実なら)とピアスの穴の特性をお伝えするために述べています。単に御徒町出没パンパンの風俗を真似てみました?
いずれにしても、まずいでしょ
雅子さんは、やはりその時代の良家の子女にはありえない、深夜の六本木出没で、野球選手とクラブで2ショット。
いずれも、他のお后候補の方々には考えられないようなことばかり。
敢えて傷物が選ばれ、皇室に送り込まれたような錯覚さえ持ちそうです。
二代続けて、下卑妃
なんの因果か皇太子妃が、水俣の加害者側ご家系、皇后の妹が
第二の水俣病加害者側に嫁いでます。
そして安倍昭恵さんは、ヒ素。皇后がチッソ。いずれも悪妻の両翼。
その他、新聞記者のくわえたタバコに火をつけてみたり。
覚えたのはチークダンスの竹山パーティ? それとも御徒町?
【重要】 これでも皇后擁護? やり放題になった乱脈皇室 《転載ご自由に》IMPORTANT 大々的拡散を希望しています。↑
当時の国会にて。
「美智子嬢は25人の見合いをしていられた」
「最後に波多野という青年と婚約。これを破棄して皇太子のほうに振り替えた」
宮内庁側は否定していますが、肯定するわけにはいかないでしょうね。
当時の国会では、左翼思想・自虐史観の三笠宮に対して「皇族を辞めてもらおう」と要するに、皇籍離脱が論議されたり、今より皇室に対して闊達です。
それを思うと、こうも批判許すまじ、「不敬」の一語で思考停止するよう、条件付けされたのは、皇后陛下が実質的女帝として天皇と宮内庁を牛耳るようになってからだと思われます。
そしてそれとともに天皇陛下はかつてなかった、権力を帯びていて政府を「お気持ち」で動かすようになりました。背後で操っているのは、女帝ですが。
戦後ほどなくは皇位継承権第一位の皇族を「くびにする」ことまで、論じられていたのです。
神拝詞(となえことば)
祓え給い、
清め給え、神(かむ)ながら守り給い、
幸(さきわ)え給え
コメ欄、お名前欄のUnknownや「あ」のような、いい加減なのや、「文章の一部をHNにしたの」とか、受け付けません。「名無し」「通りすがり」も受け付けません。
記事のどこが、なぜ間違いなのか指摘できないバカは来なくていいです。
必然性のない「非公開」指定は固くお断り