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Channel: BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。
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ご慈愛仮面がはがされるとき ~皇后もう一つのお顔~  《転載可》

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世の中には、その根拠も知らぬまま流布されている情報をそのまま印象として持ち続けている事柄があります。

「超優秀なキャリアウーマンだった経歴を捨てて、皇室に閉じ込められ病気になられたお可哀想な雅子様」

という20年間刷り込まれ続けてきた印象は、昨今急激にメッキが剥げてきた感があります。

それでも、10年ほどは国民も頭から信じこんでいたのではないですか?
「ご優秀」の刷り込みが余りにも強烈であったので。ところが蓋を開けてみれば、お言葉稚拙にして、物腰がさつ。英語の発音もそこそこで、簡単な挨拶一つを紙に書いたものを棒で読み上げ、海外のアーチストからは雅子妃がsignatureと autographの基本的区別もつかない様が暴露され、学歴と職歴への疑念が兆しそれからマグマのごとく噴出して来たわけです。

すると今度は、優秀なのに皇室が彼女を押しつぶしたからこんなになっちゃったのだ、という説にすり替えが始まりました。皇室内の因習が彼女をがんじがらめにして、能力が発揮出来ないと書いたのは、ニューズウィーク誌ですが、鳥かごの出口は開いているのに、エサ箱に顔を突っ込んだまま出て行かない鳥、と海外紙への論調に変わるまで、さして時間はかかりませんでした。

その間に、皇太子殿下による「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と、雅子妃の無能力を宮中のせいにした仰天発言あり、返す刀で「報道が過剰である」と、国民の期待を含めて、それがいけないと、バッサリマスコミのせい、国民のせい。

しかしながら、入内した女性なら皆ほぼ同じ環境を担ってきた道のり(側室有無の差異はあれ)、そもそもそのお覚悟が無きまま入内なさったのか、と言われる道理。そのうち「適応障害」なる、何にでもどういう状況でも、使い回しのきく病名が発表され、しかしそれも実は半年間が限度。というのは、適応性障害は適切な治療で半年あれば完治するというのが、医学の定説。
しかし、適応障害という言葉が一人歩き、雅子妃は病気だからお可哀想、という国民の「気分」だけは半年経過した後も、延々と続いたわけです、正確な病名はいまだ不明のまま。欧州の王室ではこんな、ルーズなことは許されないのではないでしょうか。病気病気と言い立てながら、これまでの経過、今後の治療方針すらの発表もなされず、「不敬」という言葉を悪用しつつの、けじめのなさです。

ところが、公務と祭祀には必ず訪れる「ご体調の波」が山歩き、スキー、食べあるき、妹さん宅でのパーティ、ご静養には絶対に訪れない不可解さ、公務が出来ないと出てこられなかった同日に乗馬やお買い物、といったお姿から国民の多くがもう、「ご体調の波」は信じてはいません。ただ別の精神疾患はお持ちだな、と。それなら立后は無理。お下がり下さいませ、というのが今でしょう。

ついに小和田家【出自】の秘密

こうして、雅子妃の素顔を国民が知るまで、20年かかったとはいえ皇后陛下に比べれば短期です。「A級戦犯」ご発言に端を発して、国民が疑念を抱くに至るまで、半世紀を要しています。演じ方の巧みさ、セルフプロデュースの上手さ、頭の出来の違いでしょう。雅子妃と較べて、という意味ですが

皇后陛下の素顔については、短期間にたくさん検証して参りました。以下はそのまとめです。

天皇皇后両陛下への疑義 過去記事まとめ

慰霊の日に、絵画鑑賞に出かけられる皇太子夫妻へ非難が集中し、しかしそこによもや両陛下が同じことは絶対なさらないという、信頼感があったと思います。

 慰霊の日に、絵画鑑賞へ。皇太子夫妻

ところが国民が水害に遭い、いまだご遺体が濁流の底にあるときに、両陛下は実にあっさり、美術展にお出かけになり、ニコニコと展示物をご覧になるさまが報道され、国民はあっけにとられ、ついでごうごうたる非難と失望の声がネットを満たしました。表向き一切、それらの声は報道されませんが。しかも、宮内庁発表の表から拝察するに、展覧会が間もなく終わることを理由に、急遽お出かけになったようです。

両陛下の「ご心配」と「ご訪問」で日本の不幸は解決しません。まず祭祀を

祭祀無き皇室に、そも皇室の存在意義ありや  

本日はあるエピソードを手がかりに、今上天皇皇后陛下の実像を探ってみたいと思います。


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お写真右側は、昭和天皇・香淳皇后の一番目のお子様、照宮成子( しげこ )さまです。
ご結婚後東久邇成子(ひがしくに・しげこ)さまとおなりです。

最初のお子だということで、昭和天皇と香淳皇后様は随分お可愛がりであられたようです。

 

当時としては、破格にお手元でお育てになられました。いかに、可愛がられたかが解りますね。(このお手元での養育については、賛否があって現在の皇太子は失敗例ですが、それはまた別の話)

 

その上に学業優等、運動神経にも恵まれ学習院中等科5年生の時にこんな作文をお書きです。

「私はどういうめぐりあわせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう」 —光文社「昭和の母 皇太后さま」P161

 

皇族として生きることの覚悟の厳しさを、ご自覚。雅子妃や愛子様に心得て頂きたいところです。

初めて授かったお子であることに加え、学業優等、運動よろしく、何より皇族としてのお覚悟をしっかりお持ちであり両陛下のご寵愛なみなみならぬさまが、うかがえます。



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東久邇家は敗戦の煽りで臣籍降下、平民となられ、したことのないお金の苦労も随分なさったようです。

 

http://kabanehosi.seesaa.net/article/384763300.html

 

 

心労のためかどうか、癌をわずらわれ、わずか35歳でこの世を去られたのです。五人の子供を残されて。

昭和天皇皇后の哀しみは痛切で、香淳皇后は成子様を入院させた宮内庁病院に毎日お通いになりました。良い家柄のお家に降嫁させたものの、敗戦による娘の家の逼迫ぶりはご存知で、さぞかし不憫に思し召しであられたかと存じます。

初めて授かった愛しい我が子が、日々やせ衰えてゆく。生まれて初めて抱きしめた時のあの、やわらかさ、小さな指のたわみ、ほのかな息。ありがとうございますと、神にとも知れず祈ったあの日。

残されたまだ幼い5人の孫達の不憫さ。

お心を千々に乱れさせた香淳皇后は、医学で絶望的なことを認められず、怪しげなことにも救いを求められたようです。この辺り、民間の母親と同じですね。お立場上、人前で涙を流すことは許されず、それゆえ声を忍び泣き明かされたこともあったことでしょう。

成子さまが旅立たれ、魂も抜けたようにやつれゆく香淳皇后は、せめて心ゆくまで泣きたいと那須の御用邸に身をひそめます。

身をお隠しになって、慟哭の日々。

そこへ皇太子夫妻(今上陛下、皇后陛下)が、ふいに訪れたのは成子様ご逝去から僅か25日目でした。

哀しみに暮れる皇后陛下のおなぐさめに?

いいえ、なにか自分たちの不満をぶつけるためです。

その不満の内容は解りませんが、その間のことは入江侍従が日記にしるしています。

・・・・・・・

「昭和35年2月23日(火)快晴

4時15分親王ご誕生、御母子ともおさわりないとの事。これでよかった。本当に安心した」

「昭和36年8月11日

最近の奥のおかしな空気、東宮さまと妃殿下(現天皇、皇后)に対すること・・・・・・まったく弱ることばかり。下らなさに腹が立つが、そんな事話し合う」

「昭和36年8月16日(水)快晴

那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事」

・・・・・・・ここまで

今上陛下にとっては、一番上のお姉さまです。
また美智子皇后にとっては、皇室内で唯一自分の結婚を歓迎してくださった恩人です。
異例の民間妃入内にあたっては、皇后陛下はじめ全てが反対の中、唯一の味方が成子さまであり、これは想像ですが、両陛下の説得にあたって成子様の一言は重たかったのではないでしょうか。最愛の第一子が、賛成と言っている・・・・

いわば恩人の喪の最中に、その母親である皇后陛下を訪れ、何ごとかといぶかしめば‥‥‥・当然お見舞いであろうとお迎えすれば、日頃の不満ぶつけ。

「皇后さまは終始一言もお発しにならなかった」

という入江侍従の記述から、香淳皇后のお心のうちは読み取れますね。懸命に耐えていらしたのだと思われます。
嫁だけならまだしも、息子がこの思いやりの無さ。さなきだに、悲しみに打ちひしがれているところに、息子とその嫁から浴びせかけられる不平不満。

将来の天皇皇后に対して侍従が「くだらなくて、腹が立つ」とまで書き残しているのだから、相当のことであったのではないでしょうか。
この時美智子妃は、第一子である浩宮様がすでにお生まれになっていたのだから、第一子に先立たれた母の哀しみと苦しみは解るはずでしょうに。

それを夫とともに、文句を言いに静養先にやって来る・・・・・。
夫の母であるお方が憔悴していらっしゃる時に。そして、逝去されたお方は夫の
姉であり、自分の入内を心から歓迎してくださった方。その思いも美智子様にはおありにならなかったのでしょうか。

宮中へ戻られるのを待たず、静養先に押しかけての鬱憤ぶつけですから、相当激しかったのではないですか? 日記によると長時間のようだし。「冷酷」という文字が脳裏を過るのは、大仰でしょうか。そう言えば、自らを批判した浜尾侍従の葬儀は皇居から目と鼻の先の教会で営まれたのに、参列していず、それだけならまだしも、さんざん養育係として世話になった皇太子も行かせていません。
この、なさり方! いくらお腹立ちでも、息子ぐらいはやりませんか。
念のため、当日の皇太子のスケジュールを調べてみたのですが、どうしても外せないもの、キャンセルできないものは入っていません。
浜尾さんの批判は、皇室も良かれと思っての発言だったと思います。
今、読んでも正論なのですから。当事から皇后が天皇を尻に敷いていることにも警告を鳴らしています。皇后の顔色を伺いながら天皇は動いていらっしゃると。

入内に際しての香淳皇后さまの反対と、那須の御用邸での逸話から美智子さまが香淳皇后さま他にいじめられていたように噂を流す人がありますが、どうなのでしょうね。

皆無であったとはいいませんが、現在画像その他で検証する限り、世間に流布されているような陰湿で激しいものではなかったような?
皇后陛下はああいう、おっとりしたお方であるし常磐会が意地悪だと言っても、身分は皇太子妃美智子様のほうが圧倒的に上なのですから。

雅子妃などは「それなら、皇太子妃を辞めます!」と言い放っていますが、お立場は似たようなもので、強いでしょう。言い放つぐらいなら、とっととお辞めになればいいものを、餌箱の餌は手放したくないのです。脅しとしておっしゃったのなら、それこそお里が知れますね。

女性なら即わかると思うのですが、意地悪な口うるさい姑が「近所」に住んでいる状況で、とっかえひっかえ、流行最先端の時には突飛な洋服や帽子で、お出かけできます?
今でも日本人には少々柄の悪いと思われている、濃いサングラスに高いハイヒール。これが、姑にいじめられている嫁でしょうか?

仮に多少はあったところで、娘を逆縁で喪って打ちひしがれているところへ押しかけて来て、日頃の不満を息子と息子と結託して、ぶつけて来る嫁。可愛くはありませんね。しかも言葉の端々に皇室でそれを主張しては伝統が壊れてしまう「男女同権」を匂わせる嫁。

押しかけなんて、いじめられていた嫁が出来ることではないでしょう? 後が恐ろしくて、夫だけやるのだけでも、怖いのに。さすがは母上が「皇室とのご縁談はstruggle(闘争)」ですと言ってのけた、その娘さんではあります。あの時代に言えませんよ? わざわざ横文字でおっしゃるところも、風変わりです。日本人離れしているといおうか。それに戦前から天皇は格別に偉くないのよ、とお教えだったようです。さしてお偉くないところに、私は嫁いだのよ、だから男女同権でいいのよ、ということでしょうか。

揶揄的筆致ですが、以下の過去記事

皇室でいぢめられていた、可哀想なわたくし・・・・ 《転載可》

こういう皇后陛下を、どうあっても賛美したい人々はいます・・・・と偉そうに言えぬのは、拙ブログ主も、つい最近まではそれであったからで、過去記事も隠さず削除せずそのまま残してあります。ただ、褒めてあるところは、今でもそのままそう思っています。
とりわけ美化してはいません。ただお歌の素晴らしさは、代作・添削の可能性を指摘する人もいて、以前なら受け流したのですが、現在では「解りません」と言うしかありません。
談話における言葉の選び方は、雅子妃よりはまっとうです。

ブログを始めてほぼ6年間の大半が、皇后陛下賛美。それがある日、疑念が兆し調べ始めて愕然。でもそれでも、記事を発表することはしませんでした。

実は何度か、コメント欄に書き込みを頂いたのです。天皇皇后に対する批判が皆無なのはなぜか、と。東宮夫妻のことはシビアに書いていたので、皇后陛下の何かに気づいた人々には不審だったのでしょう。

そのつど、拙ブログ主が答えたのは「東宮夫妻の批判だけでも、厳しい拒絶に遭っている現状、そこに両陛下批判を加えると、いよいよ聴く耳を持ってもらえません。それに、離婚や、廃太子廃妃の可能性がある皇太子夫妻と違って、いまさら何を申し上げても、お立場は肯定されていて動かせません」

それが、宗旨変えしてご批判申し上げるようになったのは、東宮夫妻への批判が以前ほど激しい拒否感や罵りに囲まれることもなく、多くの国民が認識を共有するようになったというのが、一つあります。

あとは「目に余る」事が多くなったからで、これは過去記事にほぼ委細漏らさず書き記しました。憲法や、韓国、慰安婦のことまで東京裁判史観をベースの自虐史観で言及されるようになられたら、国を著しく損ねます。李明博への「友好」メッセージは内閣には(無論国民にも)無断で、渡されましたが、あちらは天皇陛下の思いを利用、足蹴にしたのがあの有名な文言です。「韓国に来たければ土下座しろ」と。

天皇陛下が在韓大使にどんなお言葉を託されたのか存じ上げようもありませんが、李明博元大統領の言葉から推して「貴国へお詫びに伺うことも辞さず」というごときことではないのでしょうか。

皇后陛下擁護、賛美者の代表格は渡辺みどりさんです。帽子をいつもかぶっていらして、この方ご自分も皇族の気分? という印象を持っていますが‥‥・この方が、後書きに記していらっしゃいます。



「前略 渡辺みどり先生、あなたは間違っておられる。長年國母陛下として昭和の陛下に仕え、大任を果たされた良子皇太后を『意地悪姑』扱いするのは、おやめください。(後略)」
便箋三枚に書かれていたそうですが、これをあとがきで紹介するというのは、渡辺みどりさんは、皇太后悪人、美智子妃被害者説なのでしょう。

「平民からとはけしからん」と良子皇后が秩父宮妃や高松宮妃と一緒になって訴えた、という記述があって、それが根拠のようですが当時、平民からの入内は驚天動地であったわけだから、それをもって意地悪の根拠は、いささか過剰でしょう。

また昭和天皇崩御の後の、美智子様の低頭即中止、天皇とは基本並んで歩き、時にはご自分が前面に、と現金なくらい伝統をバッサリお変えになったところを見ると、果たして美智子皇后が、それほどやすやすといびられていただけの、存在だったでしょうか。

そして昭和天皇が「自然災害から民を守る」堡塁として、残しておきたいと歌にまで読まれた森を、無造作に伐採当時で56億からする豪邸をお建てになったさまにも、今となっては驚かされます。民間価格では遥かにもっとかかるとされている宮殿です。皇后陛下お一人で計画されたわけではないでしょうが、あれこれ注文を出されているところを見ると、森林伐採と豪邸建設に反対はなさらなかったのでしょう。

今上陛下は物事をお決めになるとき「あちら(美智子皇后)はどう言っているの」と皇后の意向を先に確かめるとして、浜尾侍従に苦言を呈されています。また皇后に対しては、「評判を気にしすぎ。もっと皇族らしく構えて」と。「クレバーだがワイズではない」という聞きようによっては、物凄い批判の言葉も残されています。
要するにあれこれ画策するが「地頭はよろしくないお方」ということなのではないでしょうか。

過去記事でそのことも触れましたが、雅子妃の場合と同じく実寸の何倍も下駄を履かせられた、才媛であったと思います。聖心女学院が点数だけの判断でですが、さほど上ランクに位置する大学ではありません。というようなことも、あれこれに気づいてから見え始めた現実で、聖心自体をもかいかぶっていたようです。昔から、お嬢様学校としてのグレードは高かったところで、美智子妃を出してからより、評価は上がりましたが偏差値は高くはありません。

本来成績などどうでもよいのですが、首をかしげる事が続くとその精神性や知力にも触れざるを得ないのでご容赦ください。

前述しましたが、明仁美智子夫妻が那須を急襲したその前月です、成子さまご逝去は。
医学的には助かるすべがなくなったとき良子皇后は、祈祷師にまですがられ「成子を、娘を助けてくださいませ!」とすがった様子が、「陛下お脈拝見」の著者である杉村医師が書かれています。

成子さまが息を引き取られた時は、もう涙も声も枯れ果てて、成子さまのご遺体のかたわらに、ぼうっと座っていらしたそうです。

そんな傷心の良子皇后と昭和天皇を静養先まで追いかけ、日頃の鬱憤をぶつけたのが今上夫妻です。美智子皇后もすでに一児の母親、子を喪ってまだ一ヶ月も立たぬ良子皇后の母親としての悲しみと絶望が解らなかったのでしょうか。そんな、硬いお心の方でしょうか。
しかも、昭和天皇夫妻にぶつけた不満といえば、入江侍従をして「くだらない」と言わしめた内容。

「いじめ」・・・・視点を変えれば、良子皇后様をいじめたのは美智子様のほうかもしれませんよ? 長年気づかなかったブログ主が言うのも、はばかられますが、今にして振り返ればあの動き、この言葉、決して皇室に喜んで迎えたい嫁ではなかったでしょう。その不満を表すのに、激しいことをなさったか? ・・・・ないと思います。あったら、あの取っ替え引っ替えのファッションも出来ないし、エプロンをして料理なさっているふりの、写真を外に出せたりしません。お遊びにも相当出かけられています。

伝統壊しという意味では、良子皇后にしてみれば、歯噛みしたいほどけしからぬ嫁であったろうとは思います。それがお言葉や態度の端々ににじむことはあったでしょう。それを「いじめ」というかどうかは、主観でしょうね。

皇后考察の一助になるかもしれない、逸話でした。

鬼怒川氾濫の最中に、美術館に急遽お出かけになられた両陛下に国民は、相当ショックを受けましたが、これがご慈愛仮面の下の「本音」なのかもしれません。宮城の要塞に我が身を起き、現場が収まったころ現地に赴かれ、お辞儀をされる。皇后陛下はコンスで。それを、有り難い光景と、涙ぐみたいような思いで拝見した時期もありました・・・・。

辛く言えば、最も大変な祭祀をねぐり、あとはお嫌いでもないお出かけ公務。被災地も、思えばご本人たちが何か大変なことをなさるわけではなく、お手振りと数十秒間のお辞儀です。
嫌な言い方をすれば、超高給あごあし付き短時間お仕事。ご慈愛プロモーションビデオ製作。・・・・不遜な言い方であるのは承知ですが、天皇を天皇たらしめる、皇后を皇后たらしめる祭祀を差し引けば、俗世のわたくし達と、どこが違いましょう?

天皇皇后両陛下への批判は、いきなり始めたわけではありません。
兆した疑問点を丹念に洗って行ったら、「こう言わざるを得なくなった」ということで、実は一番困惑しているのは書いている、書かざるを得ないでいる、拙ブログ主かもしれません。

こうしてさらすことの、デメリットとメリットを考えないわけではありません。
でも昨今の両陛下の左傾化含む言動は、日本大事・皇室大事の見地から目に余ります。それに尽きます。

最初に両陛下への批判記事を目にする人は、抵抗があるかもしれませんが初期の疑念からずーっと丹念にリサーチ、細部を検証しつつ積み上げてきた記事の延長戦上にどの記事もあります。

だから、つまみ読みでいいので出来れば時系列に近く、天皇皇后関連記事は読んでいただきたいと思います。

 

最初は記事のURL整理の時も、また拙記事でも天皇と皇后とそれぞれ分けた記事にしようと最初は思ったのですが、このお二人不可分なのです。考えてみれば当たり前ですが。
婦唱夫随で仲麗しく、人前はばからず密着・・・・と世間なら「いいご夫婦」なのでしょうが、ご夫婦の前に天皇皇后でいらっしゃるので、そこをお忘れなくということですね。

あと、皇太子夫妻の問題も結局大本を手繰れば、天皇皇后両陛下にその因を求めざるを得ないことが解りました。

長いことまったく発想だにしなかったのですが、結局雅子妃は美智子皇后の超劣化版ミニ相似形であり、皇太子も天皇の劣化バージョン相似形なのでした。
妻が圧倒的優位の夫婦関係もそのまま、相似形です。

最後に、なぜこのような批判記事を書くのか、GHQ政策をからめつつ、過去記事で折りに触れ述べているので、今回は割愛します。結論のみ言えば、秋篠宮殿下を摂政として立てられ、ご自身は一線より退かれ、絵画見物でもなんでもご自由に。また皇太子皇太子妃は廃太子廃妃の上、秋篠宮殿下へ、皇位の移譲をと、お願いしています。

なかんずく宮中祭祀が皇太子の代で途絶えるのを恐れます。どうぞ秋篠宮殿下に、口伝によるご伝授を。女性側の祭祀のお手振りその他は、紀子妃殿下へどうぞお伝え下さい。

 

◆ コメ欄より

ブログ「雅子様大好き」に、関連画像があります。

成子さま御逝去から49日も経たぬうちに、ヒャッホーと親子3人軽井沢へ静養に行く明仁・美智子ご一家。
三回忌法要には一人和装喪服でバッチリよいしょ記事をマスコミに書いてもらい…目立ったわバンジャイ
http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-276.html

...........

意地悪姑が、庶民の家への里帰りを皇太子と共にお許しになるでしょうか?

年3回はお里帰り。しかし富美さんは、相変わらずの仏頂面。
よほど、皇室がお嫌いなのでしょう。

 

清子さまの幼稚園参観を母娘で。こういうことまで許されてたんでしょう?
いじめられてた? 入内前に皇太子との間に引かれていた専用ラインが
そのまま母娘ラインとして使われ、母も始終皇居に顔を出され、
また軽井沢の別荘でも、父親を含めた一家だんらん始終。

雅子妃の実家のけじめのなさと対比的に褒められてきた
正田家ですが、それも粉飾であったようです。


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