唐閻立本王会図
この、倭の使いを見て日本は猿だ野蛮人だと、韓国人がネットで大喜びしてるのですが、
マネートゥデイ(韓国語) '日本がなくしたい文化財'話題
http://www.mt.co.kr/view/mtview.php?type=1&no=2013020617374577589
【韓国人「いつ見ても笑わせる古代日本使者の図」】
スレ主韓国人
この図はいつ見ても飽きないですwwwwwwwww
本当に百済が日本の属国だったと言うとんでもない主張をし、任那日本府説の様に日本の歴史学者たちも否定した捏造を持って、自慰をしているハハハ。
唐の人が描いた、唐を訪れた高句麗、百済、新羅、そして「倭」の使者図(笑)
みすぼらしい姿を見ても、誰が誰を支配したのか、答がはっきり出るねwww
我々の祖先たちが力がある時、日本を打ってすぐに壊さなければならなかっのに…とても可愛がってこんな馬鹿な真似になる。
広開土大王様、未開の日本人の子孫たちがカッコ悪いと、広開土大王様と高句麗を称える為の碑石を利用して自分の祖先を美化しているのをご存知ですか?
倭の奴らを恐れた高句麗が日本の威容を記録したと言いますね。 誰が誰を恐れたって?
高句麗が日本を?中国の隋や唐を跳ね除けた高句麗が?日本のチョッパリなどを?ああ、笑わせるwwww
後代にこうなると分かっていたら、広開土大王様は、その時日本を滅亡させてしまったと思いますが…。 実に残念です。
日本人たちよ。この図も捏造とするのかな? 貴様らの先祖の面でも非難してみて。
なんと未開の土人が裸足で立っているね?
毎日、韓国を見て土人土人と言っているが、本当の土人は誰なのか?
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日本にもこの図が広がっているのか?
この絵を見た日本人は、何と言うのか非常に知りたいです。
ガセンギ.com
何処かの韓国人1
日本の一部の学界では「倭」というグループに朝鮮人と中国人が最も多いと言う主張をしています。 (主に国内政治/社会的環境のせいで逃げた人たちが祖国について混乱を起こすんです。 それで倭の騒乱を「倭戦」と言わずに「倭乱」と言うんですね。)
従って、彼らの反応は明らかです。
スレ主韓国人2
>>1
じゃ、日本人たちは、自分の起源がどこだと考えているんですか?
これは祖先である倭の国まで否定するのか?
三国時代には日本列島に倭国は無かったのか?
何処かの韓国人3
>>2
もちろん、奴らも倭が今の列島人と言う事を認めるが、その群れに朝鮮人と多くの中国人が加わっていると言う主張をするでしょう。
韓国は事実「倭」という存在について、歴史学界の方で研究が殆どされていなかったが、奴らがあんな主張をし始めると、私たちも倭という存在について研究を始める様になった時に、発展したと言う事で理解しています。
韓国の学者らが、下した結論はもちろん、日本の学者たちの主張が馬鹿な話だと言う事です。
何処かの韓国人4
>>2
以下は日本の学者たちの主張です。
1.倭寇が生じた理由は、モンゴルと高麗連合軍の日本「侵略」に対する民族的復讐心からだ。(日本では「元冦の来襲」と言います。 元は元朝、寇は倭寇の事)
つまり倭寇は、単なる海賊ではなく、名分や理由を持った軍隊だった。
2.倭寇は日本人だけではなく、韓半島の白丁や広大そして済州島の住民たちを一緒にしたものです。
つまり倭寇を日本とだけ連結させる事は正しくない。
これに対して、李栄教授は「忘れられた戦争倭寇」という本を通じて次の様に反論します。
1.倭寇は元寇の日本「征伐」以前にもあった。
元寇の征伐以降の倭寇が複数の名分を掲げているが、彼らの本当の目的が略奪であった事は、再論の余地がない。
2.倭寇の中に、韓半島の人々が混ざりうると言うのは当然だ。
単なる海賊は、中国、韓国、日本を問わず常に存在した為だ。
しかし、当時、悪名高かった倭寇は性格が全然違っていた。
彼らは単純海賊ではなく、その主力と本質が日本の武士の軍隊だった。
各種文書と、そこから推論された戦闘行動を見た時、倭寇は間違いなく、日本の武士の兵士たちだ。
スレ主韓国人5
>>4
あ~なるほど~私たちの国も、もっと沢山「倭」について研究しなければなりません。 良い情報をありがとうございます。
倭の奴らの捏造は、昔も今も変わりが無いですね。
恥ずかしい事は知っていて…
何処かの韓国人6
最もな話で、裸足で衣服も大まかに四角い布を変に巻いて着ている様に雑で申し分なく、肌も土人土人と言っていた倭の奴らこそ、真の真っ黒な土人の様ですねwww
どうして素足なんだろうね~使者なら、エリートだった筈なのに。
スレ主韓国人7
>>6
私もそう思いますwww
写真を見て噴き出したし。
今も、肌の色が真っ黒なのは日本人の子孫、日本だから?
何処かの韓国人8
ふふふ、私はこの図を今日初めて見るがwwwwwwwwwwwww
この様に描写しても良いのか分かりませんが、猿がおむつして歩き回る様ですね。
何処かの韓国人9
>>8
この有名な図を初めて見たと言うのが不思議ですね。
スレ主韓国人10
>>8
ふふふ、初めて見たのwwwwwwwwwwwwww
猿がオムツをつけて、歩き回るなんて例え最高(笑)wwwwwww
何処かの韓国人11
我が国の一部の少数の馬鹿とニポン人は、あの図にいる人は倭人ではなく、九州?とにかく列島の中の他の国家人だと言いますね。
スレ主韓国人12
>>11
あ、チョッパリは自分の先祖を認める事がそんなに恥ずかしかったのか?ハハハハ~
それでは、チョッパリが言った本当の先祖は、どこにいるのかな?
空から落ちて来たのかな?wwwwwww
何処かの韓国人13
暑くて黒くてボロを着ただけだ。 と弁解しよう。
スレ主韓国人14
>>13
wwwwwwwww
何処かの韓国人15
あの中で、新羅はイケメンだな…
スレ主韓国人16
>>15
そうです。
使者が新羅はイケメン部隊の花郎(ファラン)の様ですwwwwww
管理人補足:花郎(ファラン、かろう)は新羅の男巫、あるいは男巫を中心とした青年組織。貴人の子弟の社交クラブのような集団であり、一義的には教育的機能を帯びた宗教的機関。
何処かの韓国人17
職貢図ですか?
素足の倭人ですね。
未開ですねwwwwwwwwwwww
スレ主韓国人18
>>17
はい。靴も作れない未開の人種たちが、何故かあえて任那日本府を主張し、百済を支配したと言うのか笑わせるだけです。
服も作れなくて、大ざっぱに被って結んでいるだけのくせにwwww
何処かの韓国人19
序盤になれば倭寇に、日中韓の人も混じる事は出来るが、後半に行く程、日本の倭寇たちです。
海賊ではなく軍隊。
何処かの韓国人20
誰かあれで漫画を作ってみて下さい。
何処かの韓国人21
日本でも任那日本府説は無視される現実。
http://kankokunohannou.org/blog-entry-2382.html
上記のサイトさんからの転載です。↑
どう見ても、肌は黒いし、顔つきからしても、衣装から見ても、これ南国の使者でしょう。日本には古来から履物があるし、
わざわざ履物を脱いで屋内に上がるほど清潔好きな日本人が、貧民階級は別として
こういう使節に登用されるほどの人物が裸足はあり得ないです。
肌は黒いし、南国の人間ですね。
裸足で、しかも乳出しチョゴリでウンコがあふれる泥道を歩いていたのは、日韓併合直前の朝鮮人たちで、それはイザベラ・バード他の旅行者が記しています。
日本の清潔感や文化の高さや、小物類の芸術性と共に。
上記は、想像で描かれたか、意図的に日本を貶めるために描いた職貢図だと思います。
あるいは写本の間に、改竄されたか。
朝貢に来ない日本を、支那が貶めて描いた可能性もありますね。
未確認ですが、新羅が倭の属国である旨も記されているそうで、もし事実なら韓国人こそ
隠したい文献でしょうに。
6世紀梁朝元帝(蕭繹)の職貢図の模写。左から且末国、白題(匈奴部族)、胡蜜丹、呵跋檀、周古柯国、至、狼牙修、倭、亀茲、百済、波斯、滑/嚈噠からの使者。
『中国から見た新羅』(王仲殊教授)によると、
好太王碑によると、四世紀の末から新羅は倭国の侵攻にさらされ、高句麗・好太王の
保護下に身をひそめざるをえなかった。五世紀の新羅も、いぜんとして好太王の後継者
である長寿王の傘下にあった。
(中略)
五世紀の中期以降、新羅はこうした方針を転換し、百済と結ぶことによって高句麗の勢力圏内からの離脱をはかろうとした。
ただ国力が微弱なうえに交通の便を得ることができなかったため、新羅の統治者にとって、
中国の南朝か北朝に使者を派遣して大陸と関係を結ぶ
ことは、とうていできない相談だった。
そのため中国は新羅を化外の邦とみなし、これに庇護を加えようとはしなかった。
倭国の要求を満足させるため、宋の皇帝は嘉二八年(451年)以降、倭王に「都督新羅諸軍事」の権限を認めることになるが、これによって倭王が新羅を自己の藩臣に位置づける名分が準備されたのである」 P126~P127
・・・・・転載ここまで
http://www.asianmonth.com/prize/winner/07_01.html
王仲殊氏は、現代アジアを代表する考古学者の一人として、国際的にも高い評価を受けている
第一、日本人はそれが事実なら史料を隠そうとは思いませんね。
朝鮮人じゃあるまいし。
縄文時代でさえ、日本人はこのレベルの衣装。
★梁職貢図に書かれた”新羅”についての説明文
斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅
其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘?通二年
其王姓募名秦始使随百濟奉表獻方物其國有城號曰
健年其俗與麗相類無文字刻木為範言語待百濟而
後通焉
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斯羅國は東夷辰韓の小国なり
魏の時代は新羅と云われ、宋の時代は斯羅と云われ、
その実際は韓に属し、あるいは倭国王に属し、
自ら使者を派遣する(使聘)ことができない立場であった。
普通二年(梁武帝治世521年)その王は百済に贈り物を
ささげる時に秦姓を名乗り始めました。
その国は城を健年と呼び、習俗は高麗(高句麗)に似て、
文字はなく木を刻んでいた。
言葉は百済を通して通じていた。
*しばらくコメント公開が遅延したりして、投稿頂いた方にご迷惑と、ご心配を
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