日清戦争勝利 ⇒ 日露戦争勝利 ⇒ 韓国に乞われて日韓併合
天皇・皇后と日清戦争
劇映画ではありますが、基本の史実は守りつつ、御前会議の様子など、おそらくこんなふう。
冒頭数分と、巻末数分観るだけでも価値あり。
日清戦争とは。
1894年の8月に始まり、眠れる獅子といわれた清に勝ってた戦争です。
勝利した日本は下関条約を清との間に結び、その後、大国への道を歩みます。
発端
1894年、朝鮮で東学党の乱(とうがくとうのらん)が起こる。東学党の乱とは、一種の宗教団体「東学党」日が、減税を訴え、なおかつ本の進出を阻もうと起こした運動。粗っぽい説明だけど、ほぼそんなふう。運動は、農民達にも広がり朝鮮全土を巻き込む。
内乱を裁ききれなかった朝鮮政府は、内乱鎮圧の援軍を
清に頼み、いやそりゃまずいでしょ、と立ち上がったのが、日本。
当時の日本は、朝鮮がロシアに占領されるのを防衛上、
警戒してました。
朝鮮は、清が「我が国の管理下である」と主張してました。中国の万年属国が朝鮮でしたからね。
日本はその頃、朝鮮に対して影響力を強めつつあったわけで、清とはもめて
いたわけです。そこへ「東学党の乱」の鎮圧が清にだけ出されたのを見た日本が、当時結んでいた天津条約と、朝鮮にある日本の公使館を守るという
大義名分で朝鮮半島に兵を進めたのでした。
という、あらましの流れで見る通り、日清戦争という名称のわりには
戦場のほとんどが、朝鮮半島だったんですわね。
日清戦争のきっかけとなった「東学党の乱」まで、時系列で整理してみます。
1882年 壬午軍乱(じんごぐんらん)
親日派の閔氏らが日本から軍事顧問を招いて改革を行う。それに反対して大院君派(親清派)がクーデターを起し日本人軍事顧問を殺害。
清の出兵により鎮圧。以後、親日派であった閔氏は清に寝返る。
1884年 甲申事変(こうしんじへん)
明治維新を模範に、朝鮮で改革を進めようとする独立党が、日本から支援を得てクーデターを起こす。しかし、これも清からの出兵により鎮圧。
1885年 天津条約
伊藤博文が清と条約を結ぶ。これにより、朝鮮から両国ともに兵を引き上げ、今後派兵する際は事前に通告しあう協定を結ぶ。
1894年 東学党の乱
減税や排日をスローガンに東学党が乱を起こす。清は朝鮮からの要請で出兵。日本も天津条約や日本の公使館を守るという口実で出兵する。
こうしてみると、日本と朝鮮って腐れ縁ですねえ。
放置して関わらねばよかったのかもだけど、防衛上、ロシアの脅威があったしねえ。
以下はおまけ。
皇室と戦争
史観に異議が出そうですが・・・・当時の風俗に加え、昭和天皇の大相撲見物、今上陛下と皇后陛下のご成婚パレードなどの実写フィルムが挟まれていて、興味のある方はどうぞ。
これも飛ばし飛ばし見ても大丈夫です。
【追加】コメント欄に、日本兵の優しさについて書いてくださった方がいらして、ふと思い出したこの画像、載せてみます。中国だったかなあ? 逃げ遅れた現地のお婆さんを背負って
走る日本兵。とそれ以上の状況はわからないのですが。
祖国に老いたお母さんを残してきたのでしょうか。
この兵隊さん、無事に日本に戻ってくださっていればいいのですが。
背景の看板からしてやはり中国なのでしょうか。
南京大虐殺などと、本当に許しがたい妄言ですね。
相手方の無名戦士の墓に、直立不動でお参りしていたのが日本兵なのに・・・・・。