言わずもがな、祭祀抜きに皇室の存在はあり得ず、祭祀を抜き取った時に、皇室の意味は雲散霧消します。
GHQが日本統治の利便性のために、皇室を存続させた一方、祭祀を認めず天皇家の私的行事のレベルに貶めたのはそのせいです。 日本は八百万の神の国であり、生きとし生けるものすべてに神の光と息吹を認める高い精神性にあり、その霊的感受性を儀式にまで昇華して編みあげたのが神事です。言わずもがなその神事の最高位、中央におわすのが天皇陛下であり、国家と民をその祭主としての祭祀により、神の光の中に国家と民という存在を称揚(アウフヘーベン)なさって来ました。 端的に言えばこの祭祀を執り行なえぬ者に、天皇皇后たる資格はおありではありません。 皇后には公務も祭祀も、本来義務はないと虚偽を言い立てる人がいますが、公務はその通り、しかし、皇后にも祭祀の義務はあります。
また公務は必須でないのは事実ですが、それなら筋を通していっさい、なさらないのがよろしく、オランダ他の海外なら出向くというように公務をえり好みの対象にすべきではありません。 天皇陛下にはまず新嘗祭という祭祀をご親修として執り行なう義務がおありで、これは日本国の五穀豊穣を祈る祭祀です。にいなめのまつり、または、しんじょうさい、と申します。 収穫祭にあたるもので、11月23日に、五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ=天つ神国つ神、天地全ての神々)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝なさいます。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われます。 宮中では最も大切な祭祀の一つであり大祭と呼ばれます。 皇太子が天皇に即位なさり、初めて行われるの新嘗祭は大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)と呼ばれ別格です。天皇のご生涯、初めてで最後の大祭です。今上天皇は、平成2年(1990年)11月12日に即位の礼、11月22日から23日に大嘗祭が行われました。 ちなみに、大嘗祭も新嘗祭も、昔はそのままの呼称で国家の休日というよりは、「旗日」として日の丸をあかあかと掲げ、国民全員が天皇陛下の大嘗祭、新嘗祭に思いを致し、心を一つに祈りを捧げ、さればこそ祈りは天に通じ、日本を五穀で寿ぎました。
ところが、「国民の祝日に関する件」より、新嘗祭は「勤労感謝の日」として、本来の意義とは似ても似つかぬ名称に改変され、あろうことか、その休日をメーデーに振り替えさせようとする一味もいます。 祭祀一つを取っても、いかに皇室のまつわる祭祀と、それに対する国民の意識の崩壊を狙っている層がいるか、これでおわかりのことと思います。 祭祀を天皇の国事行為とは認めず、私的行為だと貶める層も同じ連中です。
東宮擁護派の人々も、祭祀軽視・無視に無自覚ながら加担しているわけであり、そういう意味では日本の棄損者たちです。意図してそうなのではなく、その愚かしさゆえの皇室の弱体化推進、日本国の破壊者たちです。 東宮批判が保守派と、皇室尊重派を二分する分断工作などという論は戯論で笑止です。自分たちが無意識に祭祀を軽視することで、皇室の存在意義と権威を損なっていることに気づかぬ馬鹿ものたちです。 しかし、本当に・・・何をどう理論だって説いても、いっさい聞く耳持たぬ頑迷な連中、また頭脳が未熟であるゆえに、道理のわからぬ混迷の薄暗がりに漂う者たちもいます。いつの世も、どの場にも一定人数、浮浪霊のごとく必ずいます。
これらは、どうしようもありません。ものの道理のわかる者たちが数を増しながら、事態をよりよき方向へと牽引していくしかありません。思想上の頑迷な浮浪霊は放置でよいのです。
これらは、たとえ現実に批判派が懸念していたことが生じてもまだ悟りません。一部に目が覚める人もいるでしょう。
俗に「馬鹿は死んでも治らない」のです。あまり、関わりあいすぎて不毛な消耗をせぬよう、それより耳貸す用意のある人、目覚めつつある人を探してお伝えすることで、真実を知る者の人数を増やすほうが賢明です。 愚者は、己の思いこみ信ずる範疇にしがみついて離れたがらぬ、餓鬼の執着の持ち主たちであり、もともと人間としては境涯が低いのです。中韓も魂が未熟の、幼稚な魂の集合体ですが、今日本国内にいて、真実の見えぬ一群もそこまで幼稚ではないながら、成熟しているとは言い難いでしょう。 さて、皇太子ですが、このたびの宮城の被災地訪問はいかにも浮薄で、やる気のなさが見抜かれてしまいましたが、なかんずく味噌工場の見学こそは、「公務をしています、被災地忘れてません」のマスコミ向けパーフォーマンスだったのであり、たび重なるキャンセルで、本来5月までに仕込まれるべき味噌が、夏の盛りに仕込まれるという天の理にそむく場に皇太子皇太子夫妻は立ち、当然見せかけの仕込みであったエセ味噌は廃棄。
五穀のうちの豆、米(麹)が、五穀豊穣を祈るべきお立場がいらしたために、罰あたりにも廃棄される始末となった、という顛末で、ある意味、現在の皇太子殿下にふさわしい顛末であったのかもしれません。 このような仕儀に平然としていられる方に、大嘗祭を、新嘗祭を執り行なうご資格ありやなしや! 当日の味噌は一般販売には供さず、仕込の担当員の間で分け合うと表向きは伝えられましたが、批判を浴びてのいいわけでしょう。
実際は不衛生な中、仕込時期をとうに外れた盛夏に仕込まれた味噌など、廃棄なのではないですか?
また、仕込の時期を外れたので、味噌をパックに詰める工程をお見せしようとの案もあったようですが、結局見せかけだけのパーフォーマンスに落ち着いたとのことです。
いずれにしても、雑菌が持ち込まれるからという理由で報道陣のカメラの三脚は持ち込み禁止にされていながら、とりわけ皇太子妃のあの一見清潔とは言い難い長髪をそのままに、マスクすらなさらず発酵食品の現場に佇まれることなど言語道断でしょう。 宮中祭祀をもう一度整理しておきます。 宮中祭祀は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。
中世の順徳天皇は、「禁秘抄」で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国(ちょうこく。国の新たな開設)以来「神事」を最優先としている。
つまり代々の天皇たちは、何にも先駆けて宮中祭祀を最優先すべく、順徳天皇のご遺訓が受け継がれているわけです。
日本国弱体化のための皇室改編 ↓
1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
これに合わせて皇室祭祀令など戦前の皇室令も全て廃された。
・・・・・どうでしょうか、ここまで述べると(過去記事の累積も含めて)、東宮擁護の連中がいかにGHQの日本弱体化政策にやすやすと乗った情報薄弱者であるか、解るでしょう。普通の頭脳の持ち主なら。
皇后に本来公務の義務なし、ということを言って雅子妃殿下を擁護の向きもありますが、公務必須ではないは事実ですからいいとして、しかしそれならそれで、すべて公務の場から潔く退かれるべきで、オランダ公務は行きたい、とえり好みは慎むのが筋でしょう。公務はいっさいせぬならせぬで、そう明確に宣言なさるべきでしょう。
ただし祭祀はそうはいきません。出来ないでは通りません。
貞明皇后、香淳皇后、美智子皇后、と極めて熱心に祭祀をお勤めです。
皇后陛下御歌
年ごとに月の在(あ)りどを確かむる歳旦祭(さいたんさい)に君を送りて
毎年元旦の払暁、その年最初の宮中祭祀に天皇陛下はお出ましですが、
皇后陛下はお支度から、お見送りするまで付き添い、寒気厳しき戸外に佇立したまま、
天皇陛下御拝の時刻を見計らいながら、ご自身も陛下の祈りにみ心を
合わせ、国と民のつつがなきを、陛下とともにお祈り遊ばします。
もし、竹田某の言うごとく皇后には公務もなし、祭祀も必要なしというなら子産みだけが主だった役割になりますが、その論理展開なら世継ぎの男子をなさぬ時点で失格、という論理帰結に当然なるのではないですか?竹田氏は女系否定論者なのですから。失格とあらば、民間に下るべきでしょう。竹田氏の言い分を敷衍したら、ですが。
第一、皇太子が即位したら、ただちに世界100カ国に及び国々の国家元首、王族をお招きしての即位の礼が大々的に執り行なわれ、新天皇陛下にとっても新皇后陛下にとっても、生涯最大の神事とはあいなり、日本も国家として最大級の国威発揚、日本の伝統と皇室の権威の世界への発信となります。
これに、新皇后が抜けることは考えられません。
即位の礼という最大級の神事に皇太子妃抜き、皇太子だけで執り行なう式次第はありません。新天皇皇后お二人打ち揃っての即位の礼となり、神事もそのように仕組まれています。
都合でひょいひょい変えられるほど軽々しいものではないはずです。
雅子妃は皇太子妃・皇后共に失格者です。
無理。端的にそういうことです。
皇太子殿下は廃嫡、継承権の委譲を自ら申し出られるのが筋です。
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参考 宮中祭祀について詳しいサイト
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ttp://kabanehosi.seesaa.net/article/186042385.html
高橋とみよさんのブログ NHK糾弾シリーズ 今回は「はだしのゲン」です。
http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-54ed.html
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