セミリタイアを表明した身で、被災地をないがしろにされた皇太子ご夫妻の余りもの
なさりように、更に義憤に駆られ記事の更新が頻繁で、お恥ずかしいことです。
一般の擁護論はいずれも論未満の幼い感情の表出でしかなく、取るに足りず、
かといって知識人のそれも、真っ向から反論するほどのレベルに達したものは皆無です。
小林よしのり氏の論など、いくらかは、反論を試みたことは有りますが論破容易な腰砕け論ばかり。
まあでも口をつぐんでいたら、擁護論者がそれを論拠に、空疎な論を述べそうなので
目についたものは、うんざりしますが、反駁しておきます。
最近の擁護論で目についたのは、ノンフィクション作家保阪正康氏の
「雅子妃プラグマティック論」です。簡潔に言うと被災者へのお声がけなど、心情的なサポートよりも「効率的な物質支援や、経済的課題などを優先されるようなご発想がおありでは」
として、その証左として『OECD 東北スクール』取り組み発表会への出席を上げていますが、
非常に無理な論理展開です。
しかし、プラグマティック 【pragmatic】 というごとき横文字を、なぜお使いになるのか。実利的、実用主義的といえば済むものを。
要は論拠の薄弱さを、一般には耳馴染みのない言葉を遣うことで、煙幕を張る心理が働いたとしか思えないのですよ。あまりにも脆弱な論拠をご自身でもお気づきではないのでしょうか。
雅子妃が被災に対して仮に実利的解決に関心を抱かれたと、百歩譲ってしましょうか。
この方は被災にも被災地にも関心はお寄せではありませんが。関心を持つ方が震災1ヶ月目の月命日に御所で愛子さまの学友たちを招いて「お楽しみ会」を開催なさり、皇太子殿下まで混じって一日中お遊びはないでしょう?
しかし仮に実用的救済に関心をお持ちだとして、雅子妃のお立場で何が出来るのですか?
政府や公的機関に「効率的な物質支援」をお願いできるお立場ですか?
何もありませんよ。何も! 出来ないことを前提に、何の関心でしょう?
出来ることは、天皇皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻がなさっているように、しきりに被災地にお出ましになり、できるだけ長時間被災者に寄り添い、悲しみと苦しみを分かちあいながら、お声がけをなさることであり、それが皇族のお立場で、自らが関われもしない経済面その他の具体的救済策を考えることではありません。
雅子妃が真剣に実践的救済にお心を寄せていられるなら、皇族として留まらず、外にお出になって、ボランテイアなりその種の機関にお勤めになればよいことです。しかし、それはなさらないのでしょう? だったら「プラグマティック」なことを雅子さまがいかに重視しようと不毛です。無益。そんなことに、関わっている暇に被災地にお出ましになり、一声でもおかけになるのがお役目というものです。
『OECD東北スクール』取り組み発表会に「出る」ことがなぜ、実践的救済になるのか、全く不明です。「ほやが、おいしかったです」というご発言のどこにプラグマティックなご関心があるのでしょう? 失笑するばかりです。
ありていに言えば、2年間も被災地放擲、3度にも及ぶキャンセルに国民の「非難がわし」に急遽設けられた席ですね。御所から車でまず10分、15分の会場に赴かれ、外務省にお手紙を出したという女子高生に会われ、その女子高生がなぜ宮内庁ではなく、外務省に「雅子さまに来ていただきたい」と手紙を出すのか、不可解な話で、更なる不可解さは、一高校生の外務省という管轄外のところに来た手紙が雅子さまにわざわざ届けられ、それを雅子さまが読まれ「心を動かされ」・・・と非常に臭い美談に仕立てあげられていますが、被災地の一本松の絵があるビオラを皇太子がかき鳴らして、雅子妃が見物に現れいっせいにマスコミに報じられたあの時の、芝居の臭さを、ここでも感じます。
一国民が雅子さまあてにお手紙を「外務省に」書いたら、雅子さまに届けていただけるそうですが、信じられる人は書いて、こちらにも来てください、とお願いしてみたらいいでしょう。
都内の御所から近距離で、マスコミ的に目立つことで、しかも「感動的美談」をまとわせれば、お出ましいただけるかもしれません。
シナリオは誰が書いたのか知りませんが、OECDには実父小和田恒氏が関わっていましたね。一本松ビオラ演奏に拍手なさり、高校生美談の場に出かけ「ほやが美味しかったです」があり、やっと被災者と面談10分間とつながるわけですが、お車から降りられ、集会所までの30メートルをゆっくり歩かれ、またお車にゆっくり戻られる往復の時間込みですから、賞味は10分を切ります。被災者からのお声がけは基本的に禁止状態。人数も370名もの被災者がいる仮設住宅は避け、被災者の中から選別され青い識別シールを貼られた、僅か40名。
その後の味噌工場ご視察ショーは、非衛生ぶりと相次ぐ訪問キャンセルで、味噌の仕込時期を大幅にずれての、ニセ仕込みパーフォーマンスがばれて、テレビでのその後の放送禁止が言い渡され、宮内庁のほうで、なかったことにされました。味噌の後は、被災と何の関係もない青葉通りというメインストリートでパレードとお手振りで、結局実質ご公務は、7分あったかどうか。
短時間であることに対して、擁護者は炎天下であることを上げるが、雅子妃が愛子さまの水泳見物にお出ましになり、炎天下の戸外で2時間もお座りになっていたことをどう釈明するのでしょうか。
天皇皇后両陛下は、先だっての岩手遠野市で気温30度近い炎天下の中、40人の仮設住宅の入居者「一人ひとりと」言葉を交わされています。
見苦しい言い訳はいい加減にしていただきたいと思います。いえ、擁護する人々に対してですが。
8月9日 愛子さまの「イングリッシュセミナー」ご見学。←時間は不明ですが、被災者とお会いになった10分間よりは、相当長いでしょう。
8月12日〜16日 須崎御用邸でご静養 終戦記念日にもご静養。
8月20日 約7分間ご公務。
8月23日〜9月初旬 那須御用邸でご静養。ロープウェーで登山なさるお元気。
一般客はシャットアウト、立ちんぼ待ちぼうけ。
プラグマティックな被災地支援をお考えの方が、莫大な費用を費やして
お遊びの土地へ移動なさるふしぎ。行かなければ行かなくて住む場所です。
静養それ自体が悪いとは言いませんが、静養とお遊び、お仕事とのバランスは自ずとあるのではないでしょうか。
いえ、雅子妃がプラグマティックな救援などにもいっさいご関心などお持ちではないことは承知ですが、擁護派がそれでもプラグマティックを言い張るなら、では雅子妃はなぜ最もプラグマティックではない宮中を居場所にお選びになられたのでしょうか。その矛盾はどう説明するのでしょう。
神道の最高の祭祀者である天皇を頂く皇室に入るということは、pragmatism=実利性とは最も遠い精神性の領域に住まうということを意味します。
擁護者が、雅子妃がプラグマティック尊重故に、被災地訪問も公務も祭祀もなさらず、神社の鳥居もくぐらないと言い張るのであれば、日本中で最もプラグマティックではない皇室からはお離れになるべきだという結論しか導き出せません。
かくのごとく、擁護論の全ては論理で追い詰めていけば、自爆の脆弱論理ばかりです。
まだ例外をみたことがありません。